本能寺の変前後

気がつけば、6月2日は本能寺の変が起こった日である。たまたま今年の大河ドラマは「江」である。そこで、信長公を偲んで本能寺の変前後を考察したいと思う。

1562年は、信長が安土にいて、明智光秀畿内を押さえている。
東は、徳川家康が武田、滝川一益が北条
北は、柴田勝家前田利家が上杉
西は、羽柴秀吉が毛利
南は、紀伊半島の中で、織田諸将が敵と
必死になって戦っていた。こうした年明けである。
変化があったのが、3月。長年の宿敵、武田が滅びたのである。
そして、6月に本能寺の変が起こる。

今年の例だと、だいたい東日本大震災が起こった頃、武田が滅び、今日、本能寺の変が起こったのである。いかに、近い出来事かを実感していただけると思う。

武田が滅びて暇になった人物が、徳川家康である。だから、安土に来て、堺見物をしようなんて行動に出たのである。
信長は、安土に家康を迎え入れ、畿内担当である光秀に接待をさせる。このとき、信長、家康、光秀の3者がどのような鞘当をしたかはわからない。とにかく、その直後に、本能寺の変は起こった。
きっかけは、「予定外のこと」つまり、秀吉から信長への援軍依頼である。

よく、本能寺の変の黒幕説として、家康や秀吉が挙げられるが、信長だって家康を消そうとしていたのかもしれない。信長だって家康を消した時点で、自分が畿内にいたのでは都合が悪い。知らぬ存ぜぬで通したい。とにかく、みんなギリギリの駆け引きだったに違いない。

諸将が散り散りになっていることは、討ったほうにも、そして討たれてしまったほうにも、「好都合」であったろう。
結局、きっかけとなったイベントは、信長の長男、信忠のへまである。信忠は、安土から家康の接待を続行して、堺まで行き、家康を案内する予定だった。しかし、家康は「父上(信長様)が、秀吉に援軍に行かれることになったらしいから、京都でお迎えになられるとお慶びになるでしょう。」とかいって、信忠を京都に置き去りにしてしまった。

京都に来てびっくりしたのは信長である。いないはずの嫡男信忠がいる。この時点で信長は死を覚悟しただろう。

明智光秀は、家康を殺害しようとしていたのか、信長を殺害しようとしていたのかはわからないが、とにかく、関が原の戦いの小早川秀秋のような役割を演じてしまったのだろう。

さて、その後である。
光秀は、足利幕府再興を目指して動くが、足利義昭も、同士と思っていた細川幽斎も動かず、絶望してやる気を失った。

家康は、伊賀をこえて、三河で再起をはかり、天下を目指した。伊賀越えで、巧みに武田の旧家臣穴山梅雪を見殺しにする。
家康の誤算は、秀吉がこんなに早く、京に帰ってきたこと。
おそらく、毛利攻めで秀吉が新たに雇った軍師黒田官兵衛の存在を知らなかったのだろうか?竹中半兵衛が死んで秀吉は無能と侮ったか?
とにかく、黒田官兵衛立案、石田三成実行企画による秀吉の中国大返しにより、家康の野望は一時潰えることになる。

まあ、これも私の妄想に過ぎない。とにかく、各武将が薄氷を踏む思いで戦っていた。今の日本、そして世界のトップも毎日このような緊張した、薄氷を踏む思いで今日も生きておられることでしょう。