この瞬間を懸命に生きる

あけましておめでとうございます。旧年中は、たいへんお世話になりましたこと、御礼申し上げます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。今日は七草ですので、さすがにまずいと思って、今年最初の記事を書いています。

今年は、「この瞬間を懸命に生きる」ということを心に置いてがんばります。

さて、私の好きな曲に、「I've never been to me」日本語の題名が「愛はかげろうのように」という曲があります。美しいメロディーで、歌っているシャーリーンの声もすばらしいです。実は、今日、この曲の歌詞の意味を初めて知りました。あまり真剣に歌詞を聴いていなかったのですね。反省しています。そして、この歌詞を見て、泣いてしまったのです。女性についての歌ですが、ほとんど同じことが男性にも当てはまります。
http://blogs.yahoo.co.jp/vangardthirty/21747230.html
要は、「幸せは自分の日常の中にしかありえない」ということです。これは、さまざまな文学のテーマになっています。メーテルリンクの「青い鳥」。上田敏海潮音に収録されている、カールブッセの「山のあなた」。どこか遠くに楽園があるわけもなく、ただただ、幸せは日常の中でしか得られないということです。

では、日常の中でしか幸せが得られないということはどういうことでしょうか?日常を幸せにするためにはどうすればよいでしょうか?日常というのは、今、自分が生きている、この場所、この瞬間のことです。人間というのは、この時代と、この場所に縛られて生きているのです。そして、それによって生まれた人間関係や社会の中で生きているのです。つまり、今この時代を、今この場所で懸命に生きるしかないのです。この当たり前のことを勘違いすると不幸の始まりになります。「どこかにいい場所(楽園)があるに違いない。」と思い続けるほど不幸なことはありません。

よく、「過去と他人は変えられない」といいます。これはその通りです。しかし、実は、未来も変えることはできないのです。今、10年後の未来を変えてくださいと言っても変えられないですし、意味不明です。では、変えられるのは何か?「今この瞬間、ここにいる自分」だけを変えることができるのです。ここにいる自分が行動を起こせば、何かが始まるかもしれませんが、他人が行動を起こすことを期待していたら永遠にそれは起きない可能性が高いのです。


産総研の和泉憲明先生に教えていただいたのですが、「良い研究を探して世界中を歩き回ることを、昆虫採集という。どこかにもっとすばらしい研究があるかもしれない。でも実はないのです。無駄です。」研究の場合は特に、問題を考えたらまず自分で解いて、あとから過去の文献をたどったほうがずっと仕事が早いのです。実は研究だけではありません。自分で徹底的に考えて仕事をしたほうが成果が出ます。自分がやろうとしていることを過去の誰かの答えに頼ろうとすると仕事ができなくなります。自分で仕事を片付けるといってなかなかできない人がいます。そういう人の多くは、職場の同僚ではない人間、つまり、「過去の人間、そして職場以外の人間」の考えを流用するための調査に勤しみます。これは全くの無駄です。むしろ、職場の同僚や先輩、優秀な後輩に素直に訊くのが一番早いのです。自分の面子を守るために職場で我を張ってプロジェクトを停滞させるのはやはり好ましいことではありません。そして、自分で答えをだし、みんなに聞いてもらって、みんなから出た批判は一旦謙虚に受け止めることが大切です。よく聞いて相手の言っていることを理解してから反論を初めても、ちっとも遅くないのです。反論は後からでもできますが、その批判は今、この瞬間にしか聞くことができないのです。


やはり、「今、ここで、自分が懸命に考えて生きる」ことが大切だと思います。私は今年はそのように生きます。こんなことを書いていますが、このことに気付いたのは40歳になってからです。そして、この正月にやっとこういうことが書けるようになりました。


昨年亡くなった、スティーブ・ジョブズが、スタンフォード大学で行った演説の中に、有名な「今日が人生最後の日なら、今日する予定は本当に自分がしたい事だろうか?」という一節があります。この言葉は、ジョブズが「今、ここでのこの瞬間」を常に真剣に生きてきたから発せられる問いだと思います。今ここで頑張れない人、今ここでできない人、今ここではじめられない人は、いつになってもどこへいっても頑張れない。できない。はじめられない。のです。これは、私の妹と妻がよく口にする言葉です。実際に言われるととーーってもきつい言葉ですが、このお蔭で日々仕事が捗っています。


日常、周りの人の言葉を大切に受け取りながら、この一年を過ごします。改めて、どうぞよろしくお願い申し上げます。

# 17422

倉科の翁の経済論

今年の夏休みに、長野県の千曲市(旧更埴市)の倉科へ妻とともに旅行しました。結婚するまで私の本籍はここにありましたし、先祖の墓がここにあります。結婚の報告ということで、先祖の墓を詣でました。夕方、市の公民館にある浴場へ行った時のこと。風呂場で体を洗っていると、おじいさんが話しかけてきてくださいました。伺ったところお年は90を超されているとのこと。それにしてはお元気でびっくりしました。そして、お話下さることは現在の経済について。普通の田舎の山奥のおじいさんとは思えません。新聞や本をお読みになって日々勉強されているとのこと。曾孫さんが、ここから横浜まで毎日通勤なさっているとのこと。軽井沢に出て、新幹線で東京を経由して横浜まで通っていらっしゃるそうでびっくりしました。経済状況が悪く、雇用問題をご心配なさっておられました。そして、今の経済の低迷の原因について、このように一言おっしゃいました。

すべての元凶は優秀な中国人を安く働かせたことにある。

なるほど。このお言葉を私なりに検証したところ、確かにそうだ!と思うに至りびっくりしました。
バブル崩壊リーマンショックと経済の低迷が続き、もはや景気循環論は通用しなくなりました。なぜこのようになってしまったのでしょうか?ちょっと考えてみましょう。

1990年ころに東西の冷戦が終結しました。これにより、資本主義社会の側でも緊張感がなくなり、軍事などの産業もホッと一息ついた感じで、投資がひと段落したと思います。日本ではそれを不動産投機に向けて経済発展を維持し、それが行き詰るとバブルが崩壊しました。投資先を失ったマネーは迷走を続け、リーマンショックを引き起こし、さらに状況を悪化させました。もはやここまでくると現物(ハード)については投資先が見つからないのです。物が世に溢れモノ余りの時代が来ました。今、「断捨離」が流行っているのも、ものの多さに困っているからでしょう。なぜこんなことになったのか?と現代人はいぶかるかもしれません。しかし、たとえば、NHKの朝ドラ「カーネーション」や「おひさま」を見ればわかるように、戦時中戦後の日本はものどころか食べ物すらなく、私たちの2、3代前の先輩はたいへんなご苦労をなさったわけです。それを考えればものが豊かであることが幸せであることは疑いようがありません。しかし時代は移りものがあふれすぎてしまった。これもまた自然な流れです。したがって、ものの価値が相対的に下がり、ものに投資してももうからなくなってしまいました。これが冷戦後の経済の本質ではないでしょうか?

すると、もの(ハード)ではなく無形のもの(ソフト)に投資しなければならなくなります。日本は不動産(所有権、借地権)に投資し、アメリカは株や債券に投資しました。結局それが失敗に終わり、経済をさらに悪化させました。つまり、資本主義の大部分は、冷戦の次の時代のソフトへの投資に失敗したのです。唯一成功したのは、情報産業、ソフトウェア産業です。インターネット、それにより流通するソフトウェアやコンテンツ、そしてサービスです。マイクロソフト、グーグル、アマゾン、アップルなどがこの範疇です。では、こういう企業は何に投資したのか?知識や人材、頭脳に投資したのでしょう。新しいアイディアやそれを実行する意思の強さや粘り強さ、説得力、などなどです。しばしば、日本人はこういう力が弱いといわれますが、本当でしょうか?戦後はたしかにそういう傾向があったかもしれません。しかし、それより前の明治さらに江戸時代の日本は、むしろこういうことは得意だったはずです。まず、識字率は世界一。さらに江戸の文学があり、明治になればさらに西洋の文学を取り入れゆたかな文化を作ります。歌舞伎や浄瑠璃などの豊かな情緒、明治になってからも演劇など、表現力は豊かでした。これらの本質は、日本は学校教育はもちろん、家庭教育、職場教育、職人教育、文芸教育、道徳教育、社会教育がきわめてすぐれていたのです。日本人は、その社会に属するだけで、人としての豊かな教育を受けることができたのです。つまり、人に対して多額の投資をしていたのです。今の日本はどうでしょうか?スキルを磨くことに投資しますが、モラルや美意識、道徳意識に投資する人はどうも少ないようです。


無形のもの(ソフト)に投資するときに、真っ先に投資すべき先は「人」だったのでしょう。


アメリカのベンチャーキャピタルは技術ではなく起業家という人に投資しているといわれます。日本は短期に利益を上げるためにそれと全く逆のことをしてしまいました。人に投資して新しい価値を生み出して売り上げを上げるのではなく、人件費を削って原価を下げるために海外の給料の安い労働力や頭脳に頼ってしまったのです。海外の優秀な勤労者は、日本の社会に参画することで、日本の良い面をきちんと身に着け成長してきています。それに比べ日本の若者は就職先もなく、日本の社会に参画すらできなくなってしまったのです。それが、冒頭に書いた、倉科の翁のお言葉になるのです。


すべての元凶は優秀な中国人を安く働かせたことにある。


この一言が象徴しています。これにより、給料はダウン、会社は多額の内部留保を持っていても投資先を見つけられていません。今こそ人に投資する時ではないでしょうか?人に投資するといっても、もうスキルを得るための教育はあまり必要ではないと思います。それよりは、モラルや働くときの心得や、現場で考える力を養うことが大切です。教育も、座学ではなく、現場で、自分で考える力をつけることが大切でしょう。

たとえば、リッツ・カールトンクレド>です。リッツ・カールトンでは、社員がこの<クレド>を復唱して、この言葉をもとに自分で考えて行動します。ちなみに、スキルのことはあまり書かれていません。それよりも、モラルや心得や考えることについて書かれていると思います。
http://corporate.ritzcarlton.com/ja/About/GoldStandards.htm

日本にもこのような文化は会社に根付いていたはずです。毎朝朝礼があり、社是を唱え、組織の長の一言など。みんな、くだらない話だと思いながらも聞いていたはずです。実はこれが大切だったのではないでしょうか?会社が乱れ始めたのは、フレックス制が導入されてからだという会社も少なくありません。フレックス制で、本当に家庭と仕事との両立がしやすくなったかは疑問ですが、フレックス制で朝礼が壊滅したのは明白です。

日本には、しっかりした会社文化があったのに、いつの間にか放棄してしまいました。日本人は実はとてもいいことをしていたのです。それでなければ、「まことに小さな国」が世界第2位の経済大国になれるわけがありません。もっと自信を持ちましょう!ただ、時代の大きな転換点で取捨選択を迫られたとき、大切なことを捨ててしまい、いらないものを残してしまっただけなのです。必要なことは実は自分が捨てたことの中にあるのかもしれません。もう一度引き返して、拾い上げてみませんか?今見ると輝いているかもれません。宝の山かごみの山か?楽しみですね。大きなことではなく、小さなことからはじめてみましょう。所詮手の届く範囲しか人は自分で変えることができないのです。


ことしもみなさまから多くの教えをいただきました。御礼申し上げます。来年もみなさんで絆を大切にして一緒にがんばりましょう!


# 16545

忠臣蔵と坂の上の雲から老後を考える

今日は赤穂浪士の討ち入りの日です。忠臣蔵は日本でもとても人気のあるお話ですね。江戸時代、5代将軍徳川綱吉の時代、太平の世の中のお話です。江戸に勅使(京都からの天皇のお使いの方々)が下向なさいました。勅使の接待をするために、2人の地方の若い大名が召集されました。その中の一人が、播州赤穂藩主の浅野内匠頭です。もう一人は、伊予吉田藩主の伊達村豊です。江戸では、吉良上野介という年寄りの教育係がいて、接待の仕方をこの若い大名たちに教えるのです。そこで、浅野内匠頭が、いじめとも、パワハラともいえる仕打ちを吉良上野介から受けるわけです。堪忍袋の緒が切れた浅野内匠頭江戸城内で、吉良上野介に切り付けます。吉良は絶命せず、浅野内匠頭切腹赤穂藩はとり潰しになり、赤穂藩の武士たちは浪人になります。さまざまな苦労の末、有志の浪人たちが吉良邸を襲い、吉良上野介を打ち取ります。世の中は騒然となり、主君の仇を討つとは武士の鏡!、いや、幕府の仕置に楯突くのはとんでもない悪人だ、いやいや、自分たちの次の就職先を得るためのパフォーマンスだ、などなどの意見が飛び交います。綱吉は悩みに悩んだ末、この浪士たちを切腹させるのです。


まあ、あらすじはこれくらいにして、今日は、この物語の本質が、吉良上野介が老人であったことの悲劇を考えてみたいと思います。そこで、浅野内匠頭吉良上野介の立場を、年齢だけを逆転させて、あとはそのままで考えてみましょう。吉良は、江戸で先祖代々接待の仕事の教育をしている家の、若い御曹司。そこへ、田舎大名の浅野がやってきて、教育してみたもののちっとも上達しない。頭にきたので、ちくちくいじって、ときには罵声を浴びせる。老人浅野は怒りまくって刀を抜いて吉良に切り付けたものの、吉良は死なず、老藩主は切腹の上、家はとり潰し。− これでもやっぱり老藩主の家臣の有志たちは、吉良を討とうと思うのでしょうか?
こうして年齢だけをひっくり返してみると、実は、実際の吉良は、年寄りというだけで、ずいぶん損をしていると思うのです。


これが、今、私が「老人になるのが怖い」理由の一つです。


では、老人はどういう風にふるまうか?先日、「坂の上の雲」を見ていて思ったのです。児玉源太郎乃木希典に代わるべく旅順に赴く、例外中の例外をゆるした、大山巌。私には彼がとてもかっこよく思えました。大山は児玉が説明して決断したことをきき、「あとは自分が責任をとるから、やってこい!」と即決。そのあともいろいろと環境を整えてやります。結局これが旅順攻略につながるのです。では、大山は何をしていたか?これだけの窮地にありながら、敵将から奪ったベッドに寝転んだり。でも怒鳴ったりはあまりしない。いつも穏やか、ほのぼの。これだけの窮地にありながら、平常心を忘れず、即決即断。ドラマだからかもしれませんが、見ていて感激しました。こういう老人になりたいと思いました。もちろん大山巌は、元帥で非常に地位も高く有能な方です。私など全く足元にも及ばないような大人物ですが、せいぜい家の中でにこにこ。なにか起こってもあわてずさわがず。そしていざというとき即決即断。こんな老人になりたいと思いました。


まあ、忠臣蔵も、坂の上の雲も、NHKのドラマから得た知識がほとんど。いいかげんですが、「"本で歴史を読んでも自分がこうなりたいとも考えない"よりは、"ドラマの不正確な情報からベストプラクティスを見つけ自ら実践してみる"方が役に立つ!」と言い訳して、今日は許していただきたいと存じます。


# 15802

源氏物語を思ふ

昨晩、源氏物語を扱った、歴史秘話ヒストリア「わたしが愛した光源氏〜“源氏物語”女たちのドラマ〜」を拝見しました。妻も源氏物語にたいへん興味を持っており、一緒に見ました。私は、一応専門は理系なのですが、理系の人間にとって、源氏物語は、こんな風に見えるということを少し書きたいと思います。


まず、源氏物語を学校で習うのは、高校の古文の時間ではないでしょうか?もちろん、歴史の授業で、小学校の時から、紫式部という人が平安時代源氏物語を書いた、という事実は習うのですが、中身に接するのは高校の古文の時間です。歴史を習っているときは、全くわからず、きっと難しい内容の話なのかなあ、みたいに思っているのですが、読んでみるとなんとなんと、すっごーくエロい話ではないですか!恋愛話で、高校生にとってもとっても刺激的な内容で、びっくり!しました。16禁?なんでしょうか?(笑)。高校生のころ私は、オペラにはまっていましたが、光源氏は日本版ドン・ジョバンニと思っていました。しかし、モーツアルトドンジョバンニを作曲したのは、1787年。カサノヴァの自伝である「我が生涯の物語」(いわゆる「カザノヴァ回想録」)がおよそ1800年頃の話です。源氏物語は、それに遡ること800年。日本の古典のすごさに驚いたものです。さらに、高校では漢文を習い、白居易の書いた「長恨歌」は、さらに200年遡って、800年前後。中国のさらなるすごさに驚いたものです。白居易李白がいなかったら、楊貴妃の美しさも半減したでしょう。ということで、古典のエロさに圧倒されたものです。


さて、ここからが理系のさびしいところで、受験が近づくと、源氏物語は理系の入試に出ない!ということで、理系の受験のために古文を読むようになります。紫式部のライバルである清少納言枕草子。今昔物語や、その補完である宇治拾遺集。こういったエッセイや小話を読むようになりました。唯一恋愛ものだったのが、伊勢物語在原業平をモデルとしたお話にドキドキしたものです。ちなみに、冬になって風邪をひいておかゆを食べるときにつかう行平鍋。これは、在原業平の兄の在原行平が愛用していたからだという説があります。
そうして、大学に入った後は、やっぱり理系の勉強が忙しく、なかなか源氏物語を読む時間を作ることが難しくなってしまいました。


湯川秀樹先生の自伝「旅人」を読んでいますと、たしかお母様が「源氏物語はおみおつけのようにおいしい。」とおっしゃったというようなことが書いてあったと記憶しています。湯川先生ご自身も、西宮にお住まいで、大阪大学の講師として大阪まで通っていらっしゃったとき、電車の中で、源氏物語をお読みになっていたようです。ちょうど、ノーベル賞の対象となった中間子理論を考えておられらころです。



理系文系とわず、人間であれば、どうも源氏物語には心を惹かれるのだと思います。


最後に、ちょっとだけ思っていること。試験問題で、紫式部に特徴のある言葉「いとあはれなり。」、清少納言の「いとおかし。」なんていうのを答えさせる問題が出たりします。なんでも、紫式部は「いとあはれない。」、清少納言は「いとおかし。」で済ませてしまいます。これって、きわめてボキャ貧だと思いませんか?現代でも、「超ヤバイ」、「やっばーい」で済ませてしまうのと同じと思います。ですから、特に清少納言の「いとおかし。」を現代語に訳すと「超ヤバイ」や「やっばーい」でいいと思います。ただ、文脈や状況に合わせて意味を考えると「超ヤバイ」は、「とってもおいしい」「とってもかわいい」「とっても美しい」などの意味を持ちます。「いとおかし」も同じですね。ですから、「いとおかし」や「いとあはれなり」も同様に文脈を考えて意味を分かりやすくして書いておけば点数がもらえるのです。


結局、文脈、コンテキストの話に落ち着いてしまいました。反省。


# 15295

今のソフトウェア産業のために教育以外の巨額の初期投資は要らないのでは?

現在、世界中で、経済や金融のシステムが行き詰まりを見せています。一個人の生活者として、やはり不安を感じざるを得ません。そこで、自分としても、少し考えを巡らせてみました。
私は経済や金融に関しては門外漢ですので、この記事の内容も怪しいものですが、自分の考えをまとめてみるために書きました。もし、これが反面教師にでもなって、逆にどなたかの
お役にたてれば、望外の喜びです。では、はじめてみます。


いまの金融システムの誕生を考えますと、資本主義がベースでなっており、では何のための資本主義かというと、生産者が生産活動を行うための道具には巨額のお金がいるために、資本家に金を借りたのだと思います。
なんで道具に巨額の金がかかるようになったかというと、産業革命以来、工業製品を作るために大型機械が必要になったからです。そして、工業製品を売って、利益をあげ、資本家に還元するという仕組みだったのです。
巨額の初期投資をして、それをもとに生産活動をして、価値を生み、利益をあげることが資本主義の根本にあると思います。




そこで、現在の状況を考えてみると、このような金融システムや資本主義の前提条件がかなり壊れ始めていることがわかります。私が指摘できるだけでも、2つあります。
1.巨額の初期投資を前提とした経済金融システムの崩壊?
2.生産者のための金融ではなく消費者のための金融の導入による金融システムの崩壊?

まず1ですが、産業の中心がソフトウェアやサービス産業になってきました。
巨大な生産用機械が必要なくなり、個人のアイディアでプログラムを書くだけでネット上にサービスを立ち上げてビジネスができる時代になりました。
巨額の初期投資が必要な工業のための金融システムがうまく機能しなくなるのも無理はありません。

次に2ですが、生産者が生産活動をするための、資本主義です。消費者が消費活動をするために資本主義が生まれてきたわけでは何と思います。
消費は消費だけでは価値を生まず、その消費によって、人が能力を高めるとか、やる気を出して仕事に励むようになるとか、気分がよくなって仕事がはかどるとか、
生産活動にプラスになるから消費活動にお金を投資してもらえるというのが原理原則ではないでしょうか?

1.インターネットや情報産業の台頭により、1が崩壊したでしょう?
2.これの象徴が、サブプライムローンだと思っています。



では、現在の現実の世の中はどうなっているでしょうか?

特徴的なことは、「個人生産者の台頭」だと私は思っています。個人で生産して個人で事業を起こす人が増えていくでしょう。
ソフトウェアやサービスはこうした個人事業に最適です。
農家だって、町工場だって、この範疇です。

そして、この時に必要なのは、「個人の生産活動に必要なソフトウェアのための初期投資」でしょう。
ここでいうソフトウェアとは、プログラムソフトウェアではありません。スキルやモラルのことです。
個人の生産能力の向上のために、そしてスキルやモラルを向上させるために、個人に投資するという金融システムです。
実は、日本でも教育への投資はたくさんなされています。また、アメリカなどでは、ベンチャーキャピタルのように、個人の能力に対して投資するシステムがあります。
日本に足りないのは、ベンチャーキャピタルのような、「大人や社会人の能力や生産性向上のための個人への投資」です。

このように考えると、高齢化社会もそれほど悲惨ではありません。高齢者の価値もソフトウェアにあるからです。
知恵や経験といった貴重なソフトウェアには、積極的に投資してもよいのではないでしょうか?

経験、知恵、スキル、モラルといった、個人の能力に投資する、そして、その巨額な初期投資の対象として教育がある。
こんな経済・金融システムができてもよいのでは?と思います。

そして、その際に一番重要なのは、「ソフトウェアの価値の目利き」の能力です。
個人の経験、知恵、スキル、モラルが、その社会や組織において、どのような価値を持つのか、
自分の尺度で判断できる人が必要でしょう。
古道具のように目に見えるものでもないので、なかなか大変な作業になります。
企業において、人事採用担当者の判断能力が問われる時代にもなったといえます。

そして、この先に見えるのは、真に個人が自由な社会です。
個人が生産、個人が消費、個人で判断して、個人が責任を持つ。

これが、真に自由な社会ではないでしょうか?


# 15209

電子化した情報では、まだ扱えないこと。

昨日は、リアルとバーチャルの話をしました。リアルの価値とバーチャルの価値とのギャップがバブルだと考えられるのではないか?として、リアルな現物と、金融・経済活動特に電子取引のバーチャルなお金との比較をしていみました。

リアルというのは、私たちの手が触れられる物理的存在、ハード、形而下のもの、ジーンです。バーチャルというのは、私たちが手で触れられないもの、情報的状態、ソフト、形而下のもの、ミームです。それぞれここで挙げた対の言葉の集合は、それぞれ領域が異なりますが、考え方としては同じような意味と考えられます。そして、バーチャルのものは、現在、電子化されたシステムとネットワークの中で自由にやり取りできるのです。

では、リアルということ、たとえば、私たちの手が触れられる物理的存在とは、電子化されたシステムの情報と比べたとき、どのように位置づけられるのでしょうか?私が考えている物理的存在とは、人間が五感を使って感じられる感覚的な存在という感じです。人間は、自分の周囲のものを五感を使って認識します。つまり、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚です。目で見て、音で聴いて、味わって、においをかいで、皮膚で触れたり、体がぶつかったりして得られる感覚の情報により、人間はリアルさを感じられるのです。脳で感じるより体で感じることです。

さて、ここで改めてリアルとバーチャルを比較してみましょう。五感のうち、現段階で電子化してやり取りできる情報は実は限られているのです。すなわち、考えるまでもなく、視覚情報と聴覚情報は極めて高度に電子化されているのに対し、味覚、嗅覚、触覚はあまり電子化できていないわけです。つまり、視覚、聴覚の2点では、リアルとバーチャルの差がないのに、味覚、嗅覚、触覚では、リアルとバーチャルの差があまりに大きいのです。その証拠に、パソコンに向かっても、味も、においも、触れた感触の感じも、お互いに伝え合うことができないのです。


ここで、昨日、だいぶ飛躍して、バブルからはじまり、食料の重要性に行き着いたことを思い出してください。そして、食料の本質を考えてみてください。食料というのは、見た目や音を楽しむというよりは、味、におい、舌触りを楽しむものでしょう。うまいものとたらふく食ったという感覚には、味覚、嗅覚、触覚(胃や舌)が重要な役割を果たしているのではないでしょうか?
この一致は偶然なのでしょうか?


結局、いろいろ考えてみると、コンピュータで処理できるのは、より人間らしいものであるのに対し、処理できないものは、より動物的なものであることが、わかってくると思います。それもそのはず。コンピュータは人工知能の一種なのですから、知的処理が得意なのです。こんな当たり前のことを忘れていないでしょうか?

人間が知識を覚えたり、計算したり、ルールに従って考えたりすることは、いままで非常に高度で価値のある能力で、給料も高かったのです。ところが、ルールに従って正確にやる仕事はコンピュータのほうが得意なのです。この辺に、いわゆる知的だと思われていた一部の人間の価値の急落があるのです。では、コンピュータにできない知的な人間の活動とは何か?

1.論理よりも倫理でしょう。倫理とは道徳や愛情などと考えてもいいかもしれません。思いやりの心です。サービスの根本にはこれがあります。スキルよりモラルです。

2.臨機応変さ。定型業務はコンピュータが得意です。例外処理はコンピュータが苦手です。例外処理とは何か?時を選ばす急に起こり、誰がやるとも決まっておらず、手順もマニュアルもない。その仕事には名前がついていない。つまり「雑用」です。これからは「雑用」がこなせる人に価値が出てくるでしょう。

3.全体を俯瞰する力。コンピュータは分析が得意です。具体化はできますが、汎化は苦手です。要は、高い視点から全体を見回し、理解する能力のある人がこれから価値が出てくるのです。全体を見て初めて仕事の「すきま」が見えます。ちょっと考えればわかるように、高所や遠方から見るから隙間が見えるのです。そして、この仕事の「すきま」が大概「雑用」なのです。けれども、誰かがそれをやらないとみんなが困ることが多いのです。これも思いやりにより察することができます。

このように考えると、3つのことは必ずしも別々のことではないのです。そして、これが人間がリアルの世界で実行して生み出すべき価値なのではないでしょうか?
大河ドラマ「江」で、徳川家康が口にした言葉「人を救うのは人」なのでしょうね。


# 14445

食糧価値の顕在化の可能性を考える

最近、金融情勢がとても悪化しているようです。お金の取引がバーチャルの世界で行われ超高速になっているのに、リアルの世界の現物、また人の頭や人の動きがそれについて行っていないからでしょう。その辺のことを昨日書きました。子供のゲームによるリアルとバーチャルの乖離が問題になっていますが、大人の方もお金によるリアルとバーチャルの乖離が甚だしいのではないでしょうか?このようなアンバランスが、今のような不安定な情勢を生み出しているとも考えられます。実物の価値(現物、リアルな価値)に比べて経済金融活動における価値(頭の中の、バーチャルな価値)が高騰することをバブルというのであれば、やはりある種のバブルなのでしょう。

経済の先行きが不透明な中、お金自体の価値や債券の価値が急落しています。お金の価値が下がれば、相対的に物価が上がり、インフレになります。一方で、世界的なデフレスパイラルは、おさまりそうにありません。最近あまり聞かなくなりましたが、スタグフレーションという言葉があります。インフレとデフレが共存している、よくわからない経済状態です。定義があいまいなので、なんともいえませんが、一種のスタグフレーションが起こりつつあると思います。私が思うに、ある一部の商品だけが高騰し、多くの分野ではデフレ基調が続くのではないかと思います。ある一部の商品というのは食糧、食品です。このあたりは、大学時代の畏友、新村直弘さんに伺ってみたいと思っています。
http://www.amazon.co.jp/dp/4322113753

私のような素人は次のように考えます。世界的な規模で考えてみましょう。日本国内のことではありません。まず、今のままではお金の信用がなくまります。するとインフレになります。しかし、不景気で経済活動が鈍化、さらに、工場の操業なども行わなくて済むようになります。エネルギーの深刻な不足は、あまり心配ないと思っています。いまどうしてもほしい商品、たとえば、高度経済成長期の、テレビやエアコンや、冷蔵庫や洗濯機や掃除機といった商品もありません。商品に魅力がないから購買意欲がわきません。このようにいろいろなことを考えていくと、最後にどうしても必要なものが残ります。食糧や食品です。食べることなしに人は生きていかれないからです。

プロセスはわかりませんが、結局価値のなくなったお金、もしくはなけなしの金で、どうしても買わなければならない商品は、食糧と食品です。そして、食糧や食品に価値が出てくれば、お金持ちは、それに投資するでしょう。食糧取引の金融商品も充実してくかもしれません。つまり、食糧と食品の高騰は、今の状況で起これば、際限がなくなる可能性があります。

商品先物取引を世界で最初に考えて実行したのは、江戸時代中期の大阪の堂島の米商人です。米の所有する権利や買い付ける権利を売買したようです。実は、日本はこの分野で歴史的には世界をリードしていたのです。さて、「堂島」のその後はどうなったでしょうか?米が高騰し、幕府が介入します。またその後の天災により飢饉が発生します。結局各地で米一揆米騒動のような動きが起こります。そして、経済的に窮地に陥った幕府は、黒船の到来とともに消えていったのです。
フランス革命も、パンを求める民衆により起きました。「食べ物の恨みは怖い」のです。

いままで、当たり前のように食べていた食べ物のありがたさがわかると思います。ダイエットもしなくて済むようになります。食べ物が足りませんから。けれど、安い脂肪ばっかり食べていたらどうなるのでしょうね?この辺が分からないと、生活習慣病が増えるか増えないかわからないですし、社会保障の規模にもかかわってくる問題なので、深刻なのかもしれません。

太平洋戦争を見越した白洲次郎のような「武相荘」が必要になるかもしれませんね。

#14284