会計学のコンテキスト

会計は、accountingの日本語訳です。訳したのは、福沢諭吉先生でしょうか。accountingは、accountすること。要は、説明すること。会計は、たとえば企業が、投資家に対して、説明責任を果たすことといえます。説明することの目的は、納得してもらうことです。企業の活動内容を詳細に説明して納得してもらうことは、とても大変なことですから、その理解をしやすくするためのルールが会計制度で、その制度の中での重要なツールが、財務諸表、特に、B/S、P/L、そしてキャッシュフロー表の、「財務三表」といえると思います。

さて、現在の会計制度が整ったのは、1929年の世界大恐慌以降といわれています。このときの恐慌は、企業の業績の説明が正しくなかったことも引き金となって起こったと考えられたので、説明にわかりやすい制度として、現在のような会計生制度が整って行ったようです。

では、その当時の「コンテキスト」を考えて見ましょう。社会的には、先進各国が「巨大な工場」であることが理想で、とにかく、「大量のモノをつくって、たくさん売る。」ことが大切でした。つまり、製造業、第2次産業が強い国がいろいろな意味で「強い国」であったのです。今の会計制度は、そのような社会的「コンテキスト」の中で生まれたのでしょう。「大量のモノをつくって、たくさん売る。」ために重要な産業は、製造業と流通業です。そこで、会計に必要な財務諸表を作るための簿記には、基本的に、工業簿記と商業簿記があるということなのだと思います。

さて、現在の社会の「コンテキスト」はどうなのでしょうか?上記のような、製造業が盛んなのは、いわゆる新興国です。製造業を前提とした会計制度なので、新興国の成績がよくなることは、そう理解に苦しむことでもありません。では、先進国で現在、盛んになっている産業は何か?それは、第3次産業、サービス業でしょう。会計制度上見ると、サービス業の「原価」は、ほとんどが「人件費」です。製造業では、本当に「原材料」が「原価」であって、「人件費」はむしろそれに付随するものくらいの認識だったのではないでしょうか?

特にサービス業を生業とする企業にとっては、今の会計制度が、適切であるとはいえないのかもしれません。もしかすると、評価制度がそぐわないので成績がおかしくて、好成績が出せないのかもしれません。それでは、会計の本来の意味である、説明して納得してもらうことも難しいのかもしれません。

いくら走るのが速いといっても、100メートル走の成績と、マラソンの成績を比較するのには、無理があるのではないでしょうか?

さらに、体力があるといっても、走る速さと、投げる距離は、なかなか比較が難しいものです。

比較するには、その「コンテキスト」をきちんと考慮した、適切な制度と尺度、そして指標が必要ではないでしょうか?



本稿を記述するに当たって、下記の文献を参考にさせていただきました。

会計の時代だ―会計と会計士との歴史 (ちくま新書) 友岡 賛 (著)

御礼申し上げます。




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友岡 2011/01/15 09:48
お読み戴き、有り難うございます。
慶應義塾 友岡賛


masanori-yumoto 2011/01/21 07:01
慶應義塾 友岡賛先生
コメントをいただきありがとうございます。
「大学の会計」というのは、どう考えればよろしいのでしょうか?
つまり、大学が世の中に対して自らの価値を説明し、納得してもらうための制度設計のようなことも、少しずつ、考えております。
もちろん、資本主義の企業会計とは違うと思うのです。
じつは、わたくしは、大学は「最良のサービス業」と考えており、「大学の会計」が「サービス業の会計」の一模範例になるのではないか?などと空想しています。


友岡 2011/01/21 12:40
興味深い問題ですが、大学においてはmeasurableではないものの扱いが問題でしょう。
無論、企業とは違って‘利益’という概念がありませんし、企業価値に相当するもの
も、大学の場合はmeasurableではないのではないでしょうか。
無論、価値を測定しようと思えばできなくはありませんが、大学の価値はmeasurable
ではないものにこそある、という気がします。



masanori-yumoto 2011/01/22 05:33
慶應義塾 友岡賛先生

ご教示をいただき、ありがとうございます。
おっしゃることは私もよく分かっているつもりでして、大学においては、現時点では、measurableではない要素が大多数です。
しかし、経済においても、現在measurableな要素でも、過去にはmeasurableではなかった要素が非常に多いと思います。

貨幣という共通のものさしの発見がなければ、経済学が成り立たないと思っていますし、貨幣という概念の発見はすごいと思います。
たとえば、100円のトマトと100円のノートがあったとして、経済学では、このトマトとこのノートは一般的には同じ市場価値をもっています。
100円という貨幣価値があるから、トマトとノートを比較することができると思うのです。
そして、同じ市場価値がありながら、そこに、市場価値以上の価値を見出す人がいるから、経済が成り立っているし、サービス業がなりたっていると思います。
ただし、「トマト1個とノート1冊が同じ価値」といわれて、貨幣価値を介さずにそのことを理解することは難しいと思います。
(釈迦に説法で大変失礼をしておりますが、わたくし自身のリマインダですのでお許しください。)

大学における価値は、このような貨幣価値への換算は現時点ではできないと思っていますし、するべきでないでしょう。その意味で、measurableではないですし、mesurableでないものにこそ価値があるというお考えにわたしは賛成いたします。

ただ、残念ながら、偏差値や就職率、はたまた論文の数など、一見measurableなだけな、数値が勝手に一人歩きして、納得してしまっている人がいる現状を危惧しております。

大学も、貨幣価値以外の、なるべく多数の方の納得できる尺度を提示していくことが必要と思い、わたくしも浅はかな思考をめぐらせております。
ただ、その尺度が出たとたん、貨幣価値への換算式が出てくるところが、わたしの心理としては受け入れがたいです。