時々思いつく、物理学の仮説メモ その1

物理学の根本的な問題として、観測問題がある。観測者と被観測系との切り分けの問題である。システムで考えると、システムの外と中とに分ける、ドメインの切り分けの問題とも捉えることができる。たぶん、一般には、観測者と被観測系との結合が弱いので、いろいろなことがうまく説明できる。また逆に説明ができるように、結合の弱い部分を見つけて、そこで問題を切り分けて説明することになる。観測者(システムの外)を公理として与えてしまって、被観測系(システムの中)で矛盾のないロジックを組み立てることが多い。この被観測系の中のロジックでは、観測者のことを説明することは基本的にはできない。これが、数学の世界では不完全性定理と結びついているのではないかと思っている。

さて、物理において観測者は人間である。人間が観測するということは、自然界で起こっていることを、人間が理解できる情報に変換して、それを人間が取得することではないかと考えている。人間が理解できる情報のほとんどは、電磁気学的な情報である。光、電気、磁気によって伝達される情報である。つまり、自然界の情報を、すべて電磁気学的な情報に変換することが、人間が観測する上で必須の条件である。
たとえば、重力を人間が感じる可能性があるのは、三半規管くらいだろう。しかし、重力を電磁気学的な情報に変換して「見える化」すれば、より精緻なことがわかる。また、弱い力や強い力も、それにより発現する現象を、電磁気学的情報に変換することによって理解することができる。
つまり、我々の情報源のほとんどは、電磁気学的情報ということである。

ということは、ここからが仮説なのであるが、電磁気学が、3次元の空間を選択しているのであれば、我々はほとんと3次元のことしか観測できないし理解できないということなのではないだろうか?なにがいいたいかというと、超弦理論でいわれている高次元の世界があっても、我々が日常それを観測することができないのは自然なことである。なぜかはわからないが、電磁気学が3次元を選んでいて、それが人間の観測の限界となっているのだろう。

超弦理論は非常に小さい世界では現実のものであるという。だとすると、ずーっと小さいところを見ると、より高次元の世界が見えてくるはずである。おそらく、もう原子位の世界になると、なんらかの意味でちょっとだけ高次元が見えてきて、さらに、原子核クォークの世界になると、さらに高次元の世界で、強い力や弱い力が見ているのではないか?つまり、強い力や弱い力が見えること自体が高次元を垣間見ていることにはならないだろうか?
超弦理論が整合性を保っている世界の波動関数が完全な情報を含んでいるのならば、空間の次元が低い世界では、その波動関数の情報が射影されて、減った空間の次元の数の分だけ情報が欠落することになる。この射影が、波動関数の収縮ではないだろうか?
原子や素粒子の世界で見えている世界は、高次元であり、それを電磁気学的な3次元の情報に射影しているために情報が不完全であり、確率的にしか記述できなくなるのではないか?そんな気がしてならない。

もしかすると重力は、3次元ではない空間を好んでいて余剰次元の情報を含んでいるかもしれない。また、小さいほうを見て高次元が見えてくるのであれば、大きいほうを見る(宇宙の大構造を見る)と低次元の世界が見えるのだろうか?
そして、さらにこれはかなり飛躍した考えなのであるが、電磁気学で観測できる3次元以外の欠落した情報を、私たちは時間というパラメータを導入して補っている、もしくは理解しているのではないか?
そんな妄想を抱く今日この頃である。