「てこと滑車」と技術と科学

科学技術に携わっていると、しばしば、社会的責任が問われることがあります。社会的責任が問われるとは、それだけ社会に与える影響が大きいということでしょう。影響が大きいとは、社会に浸透していることであり、それだけ使っている人やかかわっている人が多いということでしょう。

科学技術と言いますが、科学と技術は分けて考えなければいけないというがまず今日の話の前提にあります。

まず技術です。技術は、あくまでツール、手段であり、使われてなんぼのものです。特許制度というのも、使われることが前提でしょう。
でも、「それを使って実現されることが、開発者の思っていた使われ方と全く違う場合がある。」という当たり前のことです。
たとえば原子力。最近大きな問題となっている原子力技術は、爆弾にも使えるし、発電にも使えます。また、現に太陽は自然界における原子力で輝いています。
たとえば、薬。生体との化学反応が起きやすい物質は「毒にも薬にもなる」わけです。

これらに共通することは、「人間が同じ力を使っても、より大きな効用を得られる」ということです。少ない原資を大きくする。これは、資本主義の考え方とまさに合致するのです。資本主義の源は、イギリスにおける蒸気機関の発明とその実用化にあると思います。蒸気機関によって小さい原資で大きな仕事をできるようにしたのです。しかし、その蒸気機関を導入するために大きな初期投資が必要でした。初期投資をして蒸気機関を導入すれば、時間がたつとその初期投資を上回るだけの利益が得られるというのが資本主義や今の金融システムの基本です。


蒸気機関のように、「少ない原資で大きな効用を得られる。」ということの根本的な仕組みとして「てこと滑車」があります。「てこと滑車」というのは、人間のもっている力を何倍にも増幅して発揮するためのものです。最近では、金融でもこの考え方が取り入れられ、金融工学では、てこ(レバレッジ)という手法も生まれました。少ない投資を増幅する技術ですが、これも、よい方にも悪い方にも使えます。今の金融を見ても、どうやら悪い方の効果が出てきているのではないかなあと思ってしまします。


結局、技術によって増幅した力を何に利用するかは、人間の理性と道徳観、理想の世界観や、価値観という、人として一番大切なことに依存するのです。それをきちんと考えて適用することが、技術を操るものの社会的責任でしょう。したがって、技術が進めば進むほど、人間の道徳観を育成することが大切になります。私が、一番大切だと思う道徳観は、「相手を思う気持ち」だと思います。仕事の根本では、相手を思う気持ちが一番大切だと思います。技術というのは、その気持ちを相手に伝えるために何かをする際の手段に過ぎないのだと思います。相手を思う気持ち、そして、そのために何かを実現すること、そして、それを早く実現するために機械や技術を使うのです。たとえば、相手を思う気持ちがあり、相手にうまい野菜を食べてもらうために野菜を作り、野菜作りを早く効率的に行うために技術を使うのです。この順番は人間の社会にとって普遍的なのではないでしょうか?そしてここでいう技術とは、何も、自然科学に基づいた技術に限ったことではなく、社会的な技術、つまり、法とか、経理とか、経営とか、そういう技術も含めて、技術の根本はそこにあると思います。たとえば法というのも、社会のもめ事を効率よく解決するための一手段だと思いますが、道徳観なく悪用すれば、社会への悪影響は限りなく大きいのです。「相手を思う気持ち」がサービス業の根本になりますが、現在は技術偏重の時代になっていると思います。サービスは、まず「相手を思う気持ち」が初めにあって、差別化のためにほんのちょっと高度な技術を使うという程度でよいのではないでしょうか?



では、道徳観や世界観はどうやって養われるのか?実は、そこに科学が役に立つのです。ここからは、科学について考えましょう。科学とは、自然界の法則を見つけ出す学問です。大雑把に言って、"人間が直接関与していない法則"(人間が消滅しても消えない法則)を対象にした学問が自然科学、人間の個人についての法則を対象にした学問が人文科学、人間の集団に関しての法則を対象にした学問が社会科学です。これら科学を研究していると、人間が日常意識したことがないようなところに、すばらしい世界が広がっていることがわかります。そして、人為的な力のはかなさやあわれさ、それに比べて、隠れている世界の多様性や複雑性に感嘆します。すると、あらためて人間という不完全な存在を愛する気持ちが生まれます。やがて、人を思う気持ちが生まれてきます。これが、道徳観や世界観につながると思うのです。アインシュタイン相対性理論や、ワトソン・クリックのDNAの二重らせんの発見は、その後の技術の発展以上に、人間の世界観を根本から覆し、新しい価値観をもたらしたことにこそ功績があるのではないでしょうか?これが科学の本当の力です。



したがって、科学と技術は、まったく違うものなのです。科学は、自然や人間の意識しないような世界に潜んだ目に見えないものとの対話、そして、技術は、人への思いや社会との対話により活かされるものだと思います。これは切り分けて考えないといけません。ここで、芸術を考えてみると、芸術は、実は科学と近いことがわかります。音の法則や美しいものの裏側に潜む法則を知り、それを凡人にわかりやすく表現するのが芸術でしょう。そして、その評価は、面白いとか楽しいというエンターテイメント性です。ピアノの演奏にとって技術は大切ですが、それだけでは心が動かないというのは当たり前のことです。つまり、極論を言えば、面白いとか楽しいとかいう心を失った学問は、もはや科学ではないのです。


科学の研究をワクワクドキドキしながら行い、その面白さをみんなに伝える。そして、その中から、技術が生まれる。その技術をまた、みんなのためにいかに有効に使うかを考える。このサイクルが前提となって、科学技術は進んでいくのでしょう。これにより、「一粒で二度おいしい」科学技術になります。このサイクルの根底にあるのは、最終的には、やはり「相手を思う気持ち」なのではないでしょうか?

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