電子化した情報では、まだ扱えないこと。

昨日は、リアルとバーチャルの話をしました。リアルの価値とバーチャルの価値とのギャップがバブルだと考えられるのではないか?として、リアルな現物と、金融・経済活動特に電子取引のバーチャルなお金との比較をしていみました。

リアルというのは、私たちの手が触れられる物理的存在、ハード、形而下のもの、ジーンです。バーチャルというのは、私たちが手で触れられないもの、情報的状態、ソフト、形而下のもの、ミームです。それぞれここで挙げた対の言葉の集合は、それぞれ領域が異なりますが、考え方としては同じような意味と考えられます。そして、バーチャルのものは、現在、電子化されたシステムとネットワークの中で自由にやり取りできるのです。

では、リアルということ、たとえば、私たちの手が触れられる物理的存在とは、電子化されたシステムの情報と比べたとき、どのように位置づけられるのでしょうか?私が考えている物理的存在とは、人間が五感を使って感じられる感覚的な存在という感じです。人間は、自分の周囲のものを五感を使って認識します。つまり、視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚です。目で見て、音で聴いて、味わって、においをかいで、皮膚で触れたり、体がぶつかったりして得られる感覚の情報により、人間はリアルさを感じられるのです。脳で感じるより体で感じることです。

さて、ここで改めてリアルとバーチャルを比較してみましょう。五感のうち、現段階で電子化してやり取りできる情報は実は限られているのです。すなわち、考えるまでもなく、視覚情報と聴覚情報は極めて高度に電子化されているのに対し、味覚、嗅覚、触覚はあまり電子化できていないわけです。つまり、視覚、聴覚の2点では、リアルとバーチャルの差がないのに、味覚、嗅覚、触覚では、リアルとバーチャルの差があまりに大きいのです。その証拠に、パソコンに向かっても、味も、においも、触れた感触の感じも、お互いに伝え合うことができないのです。


ここで、昨日、だいぶ飛躍して、バブルからはじまり、食料の重要性に行き着いたことを思い出してください。そして、食料の本質を考えてみてください。食料というのは、見た目や音を楽しむというよりは、味、におい、舌触りを楽しむものでしょう。うまいものとたらふく食ったという感覚には、味覚、嗅覚、触覚(胃や舌)が重要な役割を果たしているのではないでしょうか?
この一致は偶然なのでしょうか?


結局、いろいろ考えてみると、コンピュータで処理できるのは、より人間らしいものであるのに対し、処理できないものは、より動物的なものであることが、わかってくると思います。それもそのはず。コンピュータは人工知能の一種なのですから、知的処理が得意なのです。こんな当たり前のことを忘れていないでしょうか?

人間が知識を覚えたり、計算したり、ルールに従って考えたりすることは、いままで非常に高度で価値のある能力で、給料も高かったのです。ところが、ルールに従って正確にやる仕事はコンピュータのほうが得意なのです。この辺に、いわゆる知的だと思われていた一部の人間の価値の急落があるのです。では、コンピュータにできない知的な人間の活動とは何か?

1.論理よりも倫理でしょう。倫理とは道徳や愛情などと考えてもいいかもしれません。思いやりの心です。サービスの根本にはこれがあります。スキルよりモラルです。

2.臨機応変さ。定型業務はコンピュータが得意です。例外処理はコンピュータが苦手です。例外処理とは何か?時を選ばす急に起こり、誰がやるとも決まっておらず、手順もマニュアルもない。その仕事には名前がついていない。つまり「雑用」です。これからは「雑用」がこなせる人に価値が出てくるでしょう。

3.全体を俯瞰する力。コンピュータは分析が得意です。具体化はできますが、汎化は苦手です。要は、高い視点から全体を見回し、理解する能力のある人がこれから価値が出てくるのです。全体を見て初めて仕事の「すきま」が見えます。ちょっと考えればわかるように、高所や遠方から見るから隙間が見えるのです。そして、この仕事の「すきま」が大概「雑用」なのです。けれども、誰かがそれをやらないとみんなが困ることが多いのです。これも思いやりにより察することができます。

このように考えると、3つのことは必ずしも別々のことではないのです。そして、これが人間がリアルの世界で実行して生み出すべき価値なのではないでしょうか?
大河ドラマ「江」で、徳川家康が口にした言葉「人を救うのは人」なのでしょうね。


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