お金と「数」

お金と「数」 (旧ブログからの再掲)

お金と「数」の概念というのは本当に近いものだなあと最近つくづく感じる。お金と「数」は両方とも「数字」という表現で表されるので共通なんだ、という表現論的な立場からの同一性もあるだろうが、もうちょっと根本的なよって立つところがある。お金と「数」に共通することは、
1.「モノ」の「属性」であること。
もう少し言うと、「モノ」に「寄生」しているもの。
であることである。
お金も「数」も、我々が認識するには、
1.「モノ」の「属性」として存在するか、
2.「数字」として「モノ」を離れて表現論の中で振舞う
しかない。特にお金が怖いのは、項目番号2の方の、表現論の中で振舞うことである。これが、「お金の数字だけが一人歩きしている」とか、ただ一般に「数字だけが一人歩きしている」といわれるケースである。

これは、はじめから抽象論が続いてしまった。具体的な話をしよう。
小学生の算数の問題。
「りんごが3個、みかんが5個あります。あわせて何個ですか?」
という問題があったとする。答えは8個なんだろうが、中にはこんなことをいう子供がいる。
「りんごとみかんは違うものだから足せないの!」
もっともな意見である。さて、こう問われて、大人はなんと答えればいいのだろうか。そういうものだから、ですませてしまっていいものだろうか。
実は、この算数の問題には、さっき述べた、「数」は「モノ」に「寄生」している、「数」は「モノ」の「属性」である。ということと大きな関係を持つ。りんご1個には「1」という「数」の「属性」があるのである。もしくは、「1」が「りんご」に「寄生」しているといっていい。その「1」を「数」として取り出してくるのである。そして取り出してくるのだけれど、「数」は、その「寄生」場所を失い、表現論としての「数字」としてこの世に飛び出してくるのである。それで、りんご3個からは、「数」が「3」という数字として飛び出してきて、またみかん5個からは、「数」が「5」という数字として飛び出してきて、我々は、この数字の「3」と「5」を足して「8」という答えを得るのである。
実は、大人の人間と、素直な子供は、この非常に複雑な思考を無意識のうちに理解してしまっているのである。
わき道にそれるが、このようにすぐ理解する子供と、「りんごとみかんは足せない」という子供と、どちらが頭がいいかなどということはできない。テストの成績がいいのは前者だろう。しかし、問題を深く考えるきっかけをつかんでいるという意味で、後者は研究者としての素質があるかもしれない。アインシュタインや、エジソンのように。

これで「数」に関して初めに書いたことが少し理解していただけたどろうか。
「数」は「りんご」や「みかん」という「モノ」の「属性」で、ある意味そこに「寄生」している。そして、人間が思考するときには、「数字」として表現論として振る舞い、その「数字」の表現論によって、四則演算等の計算が出来ることになる。すると、人間は、この「数」の「表現論」としての「数字」を一人歩きさせてしまうことがある。
「とりあえず、果物が8個あるのだって。」。こんな表現を使える。これは、もう一ランク深い考察があって、「りんご」や「みかん」を「果物」として「汎化」する作業があるのだが、今回はそれについては述べない。とにかく、「モノ」からいったん飛び出した、「数」は「数字」として一人歩きをし始める。その顕著な例が「お金」である。

さて「お金」の話である。「数」が「モノ」に属しているといったが、「お金」も「モノ」に属している。このときに、また2つの意味を持つので注意が必要である。
(1)りんごが1個100円というように「モノ」に「お金」が属しているということ。
(2)100円玉1個に100円という価値があるというように「モノ」に「お金」が属していること。
実はこの2点は根源を遡れば同じことなのであるが、たぶん今の日常の感覚だと違って思えるだろう。
いま、お話したいのは(2)のほうである。
なぜ100円玉に100円の価値があるのだろうか。それは、日本の政府が保証しているからである。
そして100円玉に100円の価値が属することになる。
お札もそうである。1万円札には1万円という「お金」の「価値」が属しているのである。

つまり、紙に「お金」が「属している」のである。こんなことあまり深くは考えない。しかし不思議なことだ。
そして、「お金」は、その「寄生する」(「属する」)「モノ」を歴史と共に変えてきた。これがまた面白い。
サラリーの語源にあるように、「塩」に「お金」の「価値」」が「属して」いたこともある。
また、貝殻に属していた時もあっただろう。
そして、「お金」というように、「金」をはじめとした、「金属」に属しているのが現代である。
また、「お札」に属するようになった。初めは、「お札」は、「兌換紙幣」といって「金」と替えられる「証文」であった。それが、「金」とは替えられなくなり、今の「お札」になった。これはすごいことである。紙が「お金」になった瞬間である。これによって、金属という希少なものから紙という、より容易に手にできるものに媒体を替えたお金により経済は飛躍的に発展して言ったといっていいだろう。ちょっと「お金」が一人歩きし始めたのである。世の中に出回る「お金」の量が爆発的に増えていくのである。マネーサプライの急増により、経済が発展する。
さて、今日である。さらに「すごい」ことが起きようとしてる。「電子マネー」の登場である。つまり、「お金」はもはや「モノ」にすら「属さなく」(「寄生しなく」)なったのである。ようは、磁気の状態のSかNかで(0か1にマッピングできる)「お金」そのものが、その中に「属する」ことになったのである。

結局言いたかったことは、この「お金」の「属する」ところが「モノ」から「コト」(性質)に変わったのである。性質、状態であるから、もうこれは無尽蔵である。要するに「お金」はもう本当に「モノ」から飛び出し「表現論」としての数と同等のものになったのである。「お金」の「一人歩き」である。
「お金」は歴史と共に「属する」「媒体」を変えてきた。「モノ」から「コト」に変化することで怖いこともあるが、便利になるし、経済は飛躍的に発展するだろう。しかし、よりコントロールしにくいものになっている。個人から、国、そして「世界」がこの「一人歩きしだした、独立独歩のお金」に充分気をつけ、コントロールしなければならない時代になったのである。

※ この記事は、湯本正典の個人の見解です。