自由とルール

ルール(規則)があると、自由でなくなるのか? 自由のためには、ルールを撤廃した方がいいのか? この難しい問題を、交通ルールを例にとって考えてみましょう。

単純に、あなたが車道を横切ろうとしています。自動車の交通量が少なければ、信号機などいりません。しかし、切れ間なく自動車が行きかっていたら、どうでしょうか?あなたは、なかなか車道をわたることができません。一人で心細い思いをして、イライラしながら自動車の流れが切れるのをひたすら待ちます。ここに、信号を守るというルールはありません。人も自動車も自由に行きかっています。さて、この状況で、あなたは、本当に自由でしょうか?この場合は、信号機があり、あなたも自動車も、ルールを守ったほうがいいでしょうね。両方が、ルールがあることでかえって自由になれます。自由というよりは、より便利で快適に暮らすことができるのです。


このように、社会が複雑になり、多くの人が社会で活躍すればするほど、快適に過ごすためには、ルール(規則)が必要です。現代社会においてルール(規則)が必要なのはこのためです。自由というのは快適に生活するための一手段でしかないのです。完全に自由だけれど不快な生活と、ある程度規則を守らなければいけないけれど快適な生活とでは、どちらを選びますか?


さて、ルールを作ったとします。「交通信号をきちんと守ろう。」こういう法律ができたとします。これをひたすら守っていればいいのでしょうか?そして、これを守るために、「交通信号を守らなければ、罰金を払わせます。」というルールをさらに追加した方がいいのでしょうか?ルールを守るためのルールです。
こうしてルールは増えていくのです。


先日、藤原正彦先生の講演を拝聴しました。先生は、ルールのたくさんある国は醜いとおっしゃいました。ルールの前に、惻隠の情が必要だと。相手を思いやる気持ちだと。それがあれば、ルールは少なくて済む。そして、武士道の本質は、惻隠の情だと。



これをヒントに、上の問題を考えてみましょう。交通量の激しい車道を横断する場合の解決法は、「信号機を作って守る」ことだけではありません。実は、相手を思いやる、藤原先生の「惻隠の情」があれば、解決する問題なのです。歩行者は自動車よりも弱いもの。渡ろうとして困っている。だから、私がスピードを緩めて、止まって渡してあげよう。そう思う自動車の運転手さんがいれば、いいのです。しかし、自動車のスピードを緩めると、ほかの自動車に迷惑になったりもするので簡単ではありません。

そうは言うものの、自動車を運転している人、さらに、横断する人も、相手を思いやる気持ちをもち、その思いを実行すれば、暗黙の裡に解決する可能性のある問題なのです。現実は、このような状況で、相手のことを思いやっては自分が損をして、自分がけがをしてしまいます。こういう相手を思いやれない状況だから、ルールが必要なのです。相手を守るかわりにルールを守るのです。


現代社会は、競争社会で、効率化が求められています。みんな自分が勝ち残ることに必死です。私も生きていくのに必死です。しかし、そんな時でも、相手のことを思いやる気持ちをみんなが少しでも持てば、要らないルールが一つでも減ることにつながるのでしょう。それが本当の自由への道ではないでしょうか?