モーツアルトを核にして その6

モーツアルトの活躍した時代、ヨーロッパはどのような時代だったのでしょうか?この作曲家のコンテキストを、最後に考えてみたいと思います。



モーツアルトは、ご存じのとおり、ザルツブルクの出身です。ザルツブルクは、その名の通り、塩の町。オーストリアでとれる岩塩で繁盛していた町です。日本でも、上杉謙信武田信玄に送った塩の話が有名ですが、ヨーロッパでも貴重なミネラルであることには変わりありません。そこに、ローマ教会は、支部を置き、そのカトリックの教会の音楽部門に勤めていたのが、モーツアルト親子です。中世のローマ教会によるヨーロッパ支配が崩れ始め、イギリスでピューリタン革命がおこったり、またイギリス独自のイギリス国教会ができていました。ドイツでもプロテスタントができ、カトリックのローマ教会によるヨーロッパ支配のフレームワークが北の方からどんどん壊れていった時代です。当然、モーツアルトの時代も、地元の支配者であるハプスブルク王室と、ローマ教会の仲は悪かったのです。つまり、ザルツブルクとウィーンとは、暗黙の対立があった街なのです。しかし、モーツアルトの父子は、音楽が命です。幼少の神童モーツアルトは、父に連れられ、ウィーンの宮廷で、御前演奏をします。当時のハプスブルク家君主は、あの、有名な肝っ玉かーちゃんの、マリア・テレジアです。見事な演奏を終わったモーツアルトが、椅子から立った時にこけてしまいました。マリア・テレジアの末娘が駆け寄って、起こしてあげました。モーツアルトが言った言葉が、「僕が、結婚してあげる。」その幼いモーツアルトが求婚した相手こそ、フランスのルイ16世に輿入れし、フランス革命の断頭台の露と消える、マリー・アントワネットです。そして、その兄、母の跡を継ぎ、モーツアルトを雇う、ヨーゼフ2世も同席していました。



青年になったモーツアルトは、ザルツブルクの司教とけんかをして、ザルツブルクを飛び出し、ウィーンのヨーゼフ2世につかえます。マリア・テレジアが、世界史の教科書では名君であると書かれているのに対し、その息子のヨーゼフ2世は凡庸な君主とされています。それもそのはず、文化や音楽が大好きな道楽君主だったからです。しかし、彼がいなければ、モーツアルトの活躍はありえなかったのですから、歴史の評価というのは、見る人の立場によってさまざまなのです。歴史とは事実の連続ですが、それを知った人がどう評価するか?は興味深い問題です。また、歴史上のどのイベントを抽出してくるかによって、その人の歴史観もある程度わかるというものです。



モーツアルトは、最初、国立劇場で「後宮からの誘拐」というある程度、君主をたたえるオペラを書きますが、その後は、オペラの傾向をどんどん変えていきます。傑作「フィガロの結婚」「ドン・ジョバンニ」では、堕落して色ごとにうつつをぬかす貴族と、それをいじり倒す庶民のしたたかさが描かれています。こんな内容を、貴族がたくさんいる国立劇場で上演したらやばいだろーという内容です。そして、モーツアルトは、このような政治背景で活躍の場を失っていきます。フィガロの結婚を代表とするフランスの劇作家のペンの力は、パリの民衆の心をとらえ、やがて、モーツアルトの愛した、マリー・アントワネットをも死に追いやってしまいます。つまり、ヨーロッパで、教会の支配が終わり、地元王室の支配に移りつつあった時期に、次の時代の先駆けである民主主義の大きな流れは激流となってヨーロッパを飲み込んでいったのです。この時代ヨーロッパは「シュトゥルム・ウント・ドラング」の時代。文豪ゲーテやシラーが活躍していました。モーツアルトゲーテの詩「すみれ」に曲をつけます。この曲こそ、シューベルトの歌曲につながるドイツの叙情リートの始まりでした。モーツアルトは、ゲーテの詩だとは知らず、気に入ったから作曲したようです。ゲーテの詩への作曲はこの1曲のみです。シューベルトが「のばら」をはじめ、多数の曲をゲーテの詩に着けたのとは対照的ですね。



この時代、日本は江戸時代で鎖国をしています。幕府の財政が傾き始め、将軍吉宗が倹約を奨励しましたが、よけいデフレになって不景気になり、その後、田沼意次がインフレを誘導しましたが、飢饉によって失敗します。この時の飢饉の原因が、浅間山の噴火です。このころは、世界各地で天変地異が起き、アイスランドで火山が噴火。その影響でヨーロッパは冷夏になり、飢饉がおこり、フランス革命の遠因になったといわれています。まさに、世界が激動していたのです。



モーツアルトの悲劇は、1790年の、ヨーゼフ2世崩御によって加速します。音楽好きで、モーツアルトの音楽のよき理解者であったヨーゼフ2世の死は、モーツアルトを貧窮に追い込みます。皇位を継承した、弟のレオポルト2世は、兄の傾けた財政を立て直そうと、音楽部門などのリストラを始めます。モーツアルトを解雇こそしませんでしたが、依頼する作曲もほとんど舞踏会用の軽い曲で大作ではなかったようです。モーツアルトは、再び、君主をたたえるオペラ「皇帝ティートの慈悲」を作曲しますが、全くもって不評。そして、ザルツブルク以来の友人である、シカネーダの誘いに乗って、「魔笛」を作曲し、ウィーンの場末の芝居小屋で、「魔笛」を初演するのです。皮肉なことに、この場末のオペラを熱心に見た宮廷人は、かのサリエリだけだったようです。「魔笛」は民衆に大うけして、大ヒットします。しかし、教会、宮廷と権力の移ろいに伴って、身分を変えてきたモーツアルトにとって、次の権力者である民衆の音楽を、どのように作ればいいのか?悩んでしまったかもしれません。



ヨーゼフ2世崩御してすぐ次の年。モーツアルトは、その激動の生涯を終えました。



最後に、上記のような「ソーシャル・ネットワーク」を考えることこそ、物事の本質的な理解への道だと思いますが、いかがでしょうか?




おわり


                                                                    • -

モーツアルトを核にして その1
http://d.hatena.ne.jp/masanori-yumoto/20110723/1311447808