情報革命と金融危機

前回は、技術の中でも「てこと滑車」という効用を大きくする仕組みを交通手段に適用した歴史について考えました。交通手段は、人を運ぶ手段ですが、もちろん物流の手段にもなります。そういう意味で、潜水艦のような海中海底の交通や物流が今後面白いのでは?と書きました。


しかし、現在、一番面白いと思われている技術は、やはり情報通信技術でしょう。インターネットやWebの発達により、経済が発展した時期もありました。IT革命だったのか、ITバブルだったのか?は、私の関心事ではありませんが、とにかく、ICT(Information Communication Technology)が世界に与えた影響はまさに「革命」といえるでしょう。私はこの時代にこのICTに関わる仕事をしていることに誇りをもっていますし、幸せなことだと思います。


冒頭に書いた交通物流と、情報通信の大きな違いは、交通物流が物理的なもの、重さや大きさのあるものを運ぶのに対し、情報通信は、文字や数字、文章、絵や音楽といった、重さも形もないものです。相対性理論も持ち出すまでもなく、交通物流は、速さをそれほど大きくすることができませんが、情報は、光の速さで伝えることが可能です。情報は、それ自体は単独で存在することはできず、何らかの媒体(メディア)があることによって存在することができます。たとえば、紙とインクをもとにして「本」や「新聞」などの媒体ができます。そしてその「紙媒体」を運ぶことによって情報を伝達します。電子化した情報を、磁気媒体に記録蓄積し、電信や電波によって伝達する現代社会。このように情報の媒体には、蓄積・記録する媒体と、伝達するための媒体が必要です。現在では、電子化により両方を共通の基盤に載せることで、大量の記録されたデータを瞬時に世界中に伝達できるようになったのです。

もう一つ、情報科学の進展で忘れてならないのが、計算や演算の技術です。正確に繰り返し高速に計算ができる機械であったコンピュータでしたが、現在では、蓄積・記録の媒体を併せ持ち、さらに、インターネットやWebといった伝達媒体とつながり、驚くほど人間の脳による情報処理に近い処理ができるようになりました。ところで、これらは多くの人々の研究によって成し遂げられたものですが、人間とコンピュータの実用的なインターフェースだけは、ジョブズという一人の天才によってほとんどが整備されました。これもまた驚くべきことです。


計算、情報の蓄積、伝達を一番最初に必要としたビジネスは金融や会計経理といった分野でした。今まで人間にとってとんでもなく厄介だった、金融・会計・経理は、多くの部分をコンピュータに任せることにより、飛躍的に正確に高速に処理できるようになりました。今のような企業の成長には、企業内の会計や決算のコンピュータによる高速化が不可欠だったでしょう。金融システムがこれだけ巨額のお金を動かせるのは、やはりコンピュータのおかげでしょう。現在では、株の取引きまで、コンピュータが自動的に行う時代です。
瞬時に大量のお金が動くようになったのです。こうなると、人間の頭(判断力)が本当に追いついて行っているのでしょうか?また、ミクロ経済に教えるところによると需要と供給とのバランスで取引する価格が決まるというのですが、本当にバランスするほどゆっくりとは変化していないでしょう。瞬時瞬時の急激な変化の中でバランス状態は出現していない可能性があります。従来の経済や金融の理論が成り立たなくなりました。特に、金融では、確率のような不確定な要素を扱う理論ができ、金融工学が発達して、「神の見えざる手」ではなく、「神の振るサイコロ」に将来をゆだねることになってしまったのです。

こうなった原因の一つ、それもかなり大きな部分を占める原因に、現在の計算機・情報・通信の技術の発達があるのでしょう。

ものの移動と情報の移動、つまり、交通物流と情報の流通の速度が桁違いに大きく異なったことが、今の経済や金融システムの不安定化につながっていると感じでいます。


計算・情報・通信技術の発達は、経済や金融の成長に不可欠のものでありました。しかし、今では、人間や物流といった現実の世界の動きと比べ桁違いに大きな速度で、計算・情報・通信が処理されて、経済・金融システムが不安定になっています。自らの成長を支えていたものが、自らの崩壊を招くことは、システムの中では珍しいことではありません。安定化のためには、もう少し「ゆっくりした流れ」が必要なのかもしれません。


# 14104

技術から見るこれからの資本主義

先日の本ダイアリーに書いたように、技術の基本は、「てこと滑車」。少ない力を大きな力に。少ない原資で大きな効用を!です。これは、資本主義と目指すところが同じです。そして、この大きな力は、あくまで手段であり、何か別にある「目的」のために使われるのです。資本主義もそうでしょう。また、金融だってそうです。お金を増やして何かに使うためにあったはずです。では、この目的とは何か?一言で言ってしまえば「人類の幸福のため」でしょう。人類の幸福のためというのは少し大きすぎる概念で、具体的には、自分の幸福からはじまり、家族の幸福、地域の幸福、地方の幸福、国の幸福、世界全体の幸福というように広がっていきます。しかし、原資は限られているので、そのなかですべての幸福を実現するのは無理です。個人同士の幸福が互いに相反する状態である時、けんかが起きます。ある国とある国の利益が相反するときに戦争が起きます。また、個人の利益と国の利益が反するときもあります。公共の利益か、基本的人権の尊重かという、政治哲学の話になります。このように、限られた原資と利益の分配をスムーズに行うために政治があります。


こんな釈迦に説法な話はやめて、改め技術を見てみましょう。技術は、限られた原資で大きな利益を得るのですから、人間は基本的に幸福になります。政治もやりやすくなります。では、今の人類にとって、どれほど大きな利益が必要で、そのためにはどれだけの原資が必要で、どれだけの技術が必要か、考えてみましょう。


一つの例として、交通手段の技術を考えてみましょう。蒸気機関ができて、蒸気船ができたことにより、海外渡航が容易になりました。また、ガソリンエンジンができて、自動車や飛行機ができて、さらに移動が容易になりました。考えてみれば、大航海時代、海外渡航は国家プロジェクトでした。しかし、現在は民間企業が行っていますし、個人でやろうとしても不可能ではありません。また、サービスを受けるだけならば、個人のお金で海外旅行ができます。こうしてグローバル化が進みました。

大航海時代以前は、海の果ては滝で落ちているとか考えていたので、船で渡航した先に、同じような人間がいたことに、本当に驚いたことでしょう。いまでいったら、宇宙人に遭遇した感じではないでしょうか?こういう、海の果ての陸に人間がいたことはラッキーで、これにより、新たな陸に市場や原材料の調達地を得ることで、資本主義は、爆発的に成長しました。では、次はどこに向かうか?そう。宇宙です。そして、いま宇宙時代においても、宇宙船の打ち上げなどは国家プロジェクトになっています。やがて個人ができるようになるまでダウンサイジングするのか?は疑問ですが。しかし、ここで不幸なことに気づきます。となりの星までの距離があまりに遠い。そして、その星には同じ人間が存在することはほとんどない。ここが、大航海時代から始まる渡航時代と違うところです。隣の星には、市場はないし、作れないのです。また原材料の調達地になるかさえもわからない。このような絶望的な状況にあります。


「小さなエネルギーを使って大きな効用を得る」という例として交通手段を上げ、海外渡航を説明しました。しかし、宇宙渡航をしてもほとんど何の利益も得られないことに気づきつつあるのです。では、この「大きな力」を手段に、どこへ向かうのか? 私には、ただ一つしか答えが思いつきません。海です。実は、地球上の海の本当の底にたどり着いた人類はいません。そして、深海がどうなっているのかも、なにがあるのかも、あまりわかっていないのです。もしかすると資源の宝庫かもしれません。では、なぜできないか?それは、潜水艦が高圧に耐えられないからです。また、海外の国がすべて海に面しているわけではありません。だから、海を開発するといってもできる国は限られているのです。ここが、陸地と違うところです。陸地に建てる工場や建築物、交通機関のように、海の施設を有効利用できる国は限られているのです。そういう観点からみると、日本はとても有利であることがわかります。円高ですから、海外の市場から、海洋開発のための資材や技術を買い付けて、日本で施設を研究し、開発し、設置する、なんてことは考えられないでしょうか?

いずれにしても、人類はこの有り余った力をどこに向けて、何を目的として行動すれば、幸福になれるのか?この問いにまだ答えが出せていないのです。くれぐれも自爆にだけは使いたくないものです。


# 14052

「てこと滑車」と技術と科学

科学技術に携わっていると、しばしば、社会的責任が問われることがあります。社会的責任が問われるとは、それだけ社会に与える影響が大きいということでしょう。影響が大きいとは、社会に浸透していることであり、それだけ使っている人やかかわっている人が多いということでしょう。

科学技術と言いますが、科学と技術は分けて考えなければいけないというがまず今日の話の前提にあります。

まず技術です。技術は、あくまでツール、手段であり、使われてなんぼのものです。特許制度というのも、使われることが前提でしょう。
でも、「それを使って実現されることが、開発者の思っていた使われ方と全く違う場合がある。」という当たり前のことです。
たとえば原子力。最近大きな問題となっている原子力技術は、爆弾にも使えるし、発電にも使えます。また、現に太陽は自然界における原子力で輝いています。
たとえば、薬。生体との化学反応が起きやすい物質は「毒にも薬にもなる」わけです。

これらに共通することは、「人間が同じ力を使っても、より大きな効用を得られる」ということです。少ない原資を大きくする。これは、資本主義の考え方とまさに合致するのです。資本主義の源は、イギリスにおける蒸気機関の発明とその実用化にあると思います。蒸気機関によって小さい原資で大きな仕事をできるようにしたのです。しかし、その蒸気機関を導入するために大きな初期投資が必要でした。初期投資をして蒸気機関を導入すれば、時間がたつとその初期投資を上回るだけの利益が得られるというのが資本主義や今の金融システムの基本です。


蒸気機関のように、「少ない原資で大きな効用を得られる。」ということの根本的な仕組みとして「てこと滑車」があります。「てこと滑車」というのは、人間のもっている力を何倍にも増幅して発揮するためのものです。最近では、金融でもこの考え方が取り入れられ、金融工学では、てこ(レバレッジ)という手法も生まれました。少ない投資を増幅する技術ですが、これも、よい方にも悪い方にも使えます。今の金融を見ても、どうやら悪い方の効果が出てきているのではないかなあと思ってしまします。


結局、技術によって増幅した力を何に利用するかは、人間の理性と道徳観、理想の世界観や、価値観という、人として一番大切なことに依存するのです。それをきちんと考えて適用することが、技術を操るものの社会的責任でしょう。したがって、技術が進めば進むほど、人間の道徳観を育成することが大切になります。私が、一番大切だと思う道徳観は、「相手を思う気持ち」だと思います。仕事の根本では、相手を思う気持ちが一番大切だと思います。技術というのは、その気持ちを相手に伝えるために何かをする際の手段に過ぎないのだと思います。相手を思う気持ち、そして、そのために何かを実現すること、そして、それを早く実現するために機械や技術を使うのです。たとえば、相手を思う気持ちがあり、相手にうまい野菜を食べてもらうために野菜を作り、野菜作りを早く効率的に行うために技術を使うのです。この順番は人間の社会にとって普遍的なのではないでしょうか?そしてここでいう技術とは、何も、自然科学に基づいた技術に限ったことではなく、社会的な技術、つまり、法とか、経理とか、経営とか、そういう技術も含めて、技術の根本はそこにあると思います。たとえば法というのも、社会のもめ事を効率よく解決するための一手段だと思いますが、道徳観なく悪用すれば、社会への悪影響は限りなく大きいのです。「相手を思う気持ち」がサービス業の根本になりますが、現在は技術偏重の時代になっていると思います。サービスは、まず「相手を思う気持ち」が初めにあって、差別化のためにほんのちょっと高度な技術を使うという程度でよいのではないでしょうか?



では、道徳観や世界観はどうやって養われるのか?実は、そこに科学が役に立つのです。ここからは、科学について考えましょう。科学とは、自然界の法則を見つけ出す学問です。大雑把に言って、"人間が直接関与していない法則"(人間が消滅しても消えない法則)を対象にした学問が自然科学、人間の個人についての法則を対象にした学問が人文科学、人間の集団に関しての法則を対象にした学問が社会科学です。これら科学を研究していると、人間が日常意識したことがないようなところに、すばらしい世界が広がっていることがわかります。そして、人為的な力のはかなさやあわれさ、それに比べて、隠れている世界の多様性や複雑性に感嘆します。すると、あらためて人間という不完全な存在を愛する気持ちが生まれます。やがて、人を思う気持ちが生まれてきます。これが、道徳観や世界観につながると思うのです。アインシュタイン相対性理論や、ワトソン・クリックのDNAの二重らせんの発見は、その後の技術の発展以上に、人間の世界観を根本から覆し、新しい価値観をもたらしたことにこそ功績があるのではないでしょうか?これが科学の本当の力です。



したがって、科学と技術は、まったく違うものなのです。科学は、自然や人間の意識しないような世界に潜んだ目に見えないものとの対話、そして、技術は、人への思いや社会との対話により活かされるものだと思います。これは切り分けて考えないといけません。ここで、芸術を考えてみると、芸術は、実は科学と近いことがわかります。音の法則や美しいものの裏側に潜む法則を知り、それを凡人にわかりやすく表現するのが芸術でしょう。そして、その評価は、面白いとか楽しいというエンターテイメント性です。ピアノの演奏にとって技術は大切ですが、それだけでは心が動かないというのは当たり前のことです。つまり、極論を言えば、面白いとか楽しいとかいう心を失った学問は、もはや科学ではないのです。


科学の研究をワクワクドキドキしながら行い、その面白さをみんなに伝える。そして、その中から、技術が生まれる。その技術をまた、みんなのためにいかに有効に使うかを考える。このサイクルが前提となって、科学技術は進んでいくのでしょう。これにより、「一粒で二度おいしい」科学技術になります。このサイクルの根底にあるのは、最終的には、やはり「相手を思う気持ち」なのではないでしょうか?

#13883

ものづくりとジョブズ

日本は「ものづくり」の国と言われてきました。すばらしい技術を持ち、消費者を喜ばせる、品質の高い製品を作ってきたと思います。特に、ソニーに代表される、携帯型デジタルメディアは、世界の羨望でした。おそらく、ジョブズにとってもそれは同じで、彼は、ソニーなどを見て、素直にいいなあ、私のあのような製品を作りたいと思ったに違いありません。


さて、日本での「ものづくり」の考え方が進化しなかった理由として、明治以降の日本が、「職人」と「工場のラインに並ぶ人」を両方とも「ものづくり」の枠でくくってしまい、同じような教育をしてしまったことだと私は思っています。たとえば仕立て職人は、依頼してくる客の要望をよく聞き、それにこたえるために腕を振るい、客の喜ぶ服を作ります。しかし、そういった服をコピーして大量生産する工場のラインに立つと、ひたすら機械の相手をして、客の顔など見ることもありません。これが、職人と工場のラインの違いです。


ジョブズは、職人でアップル社の製品をデザインする人であったと思いますが、決して、アップル社の製品の工場のラインで作業をする人ではなかったのです。


職人にとって大切なことは、想像力や妄想力でしょう。人間は自分の頭でイメージできないことはなかなか実現できないものです。想像力や妄想力が創造力につながるのです。また、それを独りよがりの妄想で終わらせず、つねに試作機を作って、自分で使ってみる。そして人の意見を聞いて取り入れ、改善する。こうすることによって、妄想をみんなと共有することにより、妄想を現実とする。こうした力が、創造的な仕事につながるのでしょう。
一方、工場のラインでこんな妄想をしていたら事故のもとになるだけです。もし工場のラインで働いているのであれば、終業後に妄想しないといけません。時間がないのはむしろ幸いで、時間がなくても自分の時間を削ってでも実現したくなるようなワクワクした夢を追い続けることが創造力の源になるのだと思います。



明治以降の日本の教育は一定品質の「工場のラインできっちり仕事ができる人」の育成で大成功を収めました。しかし、「職人」の教育がおろそかになっていたのではないでしょうか?幸い、いま、私は大学に所属しています。時間を少し作ってでも、この問題を解決するように努力したいと思います。


このブログは、Facebookでの多くの方々との議論をもとに書きました。感謝申し上げます。

第20回 東京大学 理学部公開講演会 に出席して

昨日は、第20回 東京大学理学部公開講演会に出席いたしました。

http://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/event/public-lecture20/

講演に先立ち、第20回を記念して、コンサートが開かれました。10月20日(木)には、ハーヴァード大学のロバート・レヴィン氏のモーツァルトの生演奏を拝聴し、昨日は、二期会の菊池美奈さんの歌を聴きました。安田講堂でこのように音楽が聴けることはたいへんうれしいことです。確かに、現在の音楽ホールほど音響効果はよくないでしょう。しかし、むしろヨーロッパの街中にある演奏会場の雰囲気に似ているので、安田講堂も音楽を楽しめるホールだと思います。


菊池さんが、MCでとてもよいことをおっしゃいました。「音楽は、時間に秩序を与える。」とてもいい言葉ですね。西洋音楽の3要素は、リズム、メロディ、和音ですが、ルールがある程度決まっており、秩序があります。その秩序に従って、いかに多彩で個性的な表現をするかが、音楽の勝負どころでしょう。
私たちが日ごろ時間を感じるのは、実は秩序だった物理的運動からです。人間が時間を感じるのは、地球が、自転と公転をしていて、日が昇り、東沈み、それが約365回続く間に、太陽の周りを1周しているからです。もし、この運動がなく、時間がのっぺらぼうに進んでいたら、おそらく、人間は時間を意識しなかったかもしれません。現在でも人間は正確に時間を知る感覚器を持っていません。時間を知るにはどうしても時計に頼っているのです。何もなかったら、腹時計を信じるしかないでしょうか(笑)? ギリシャ時代は、音楽と物理は極めて近い学問分野でしたし、コペルニクスガリレイニュートンが、星の運動の秩序を見て、天空の音楽と思ったのも無理はありません。

まさに、「時間の秩序」を考えている点で、物理と音楽は非常に近い関係にあります。おたがい精密な論理構造を持ちながら、それを使ってどう表現するか?それを使っていかに遊ぶか?それが醍醐味です。



もう一つ。昨日のパネルディスカッションで、科学と音楽の共通点が挙げられました。それは、とにかくやって楽しいし、新しい発見があれば、誰かに伝えたいし、ワクワク感や興奮がみなさんの共感を呼ぶという点です。よく、科学者のプレゼン能力が低いといわれます。私など、プレゼン能力が本当に低いので、いつも悩んでいますが、日々プレゼンの研究もしていますし、していきたいと思っています。昨日の、演者の早野先生、塚谷先生のプレゼンは、本当にすばらしかったです!ワクワク感や興奮が伝わってきました!しかし、ワクワク感を伝えるためには、日々ワクワクしながら研究できていないと難しいです。ワクワクできない理由として、教授からテーマを与えられ、無理やりやらせられる感じで、研究をしているということが挙げられます。無理やりやらされて仕事をこなしているのであれば、企業に勤めた方が、ずっと金になります。やはり、自主的な研究を、このやるべき仕事がある中で、いかにして「隙間時間」を作って行っていくか?研究していく上で大切と思っています。「隙間時間」を無理やり作って研究したい!というくらいのワクワク感のある研究でないと意味がないということにもつながります。これも、時間管理に関することで、「時間に秩序を与える」「時間にメリハリを与える。」ことの大切さともつながります。



そして、プレゼンでは、音楽も、科学も最高のパフォーマンスをしたいですね!



日々、研鑽ですし、プレゼンで最高のパフォーマンスができれば、お金や職も自ずと近づいてくると思います。これは、企業でシステムを売る際にも同様です。
私もこの能力が低いことが致命的です。

日本人がプレゼンが下手といいますが、能や、歌舞伎、文楽、落語などの芸能のパフォーマンスを見ていると、すばらしいので、日本人だからは理由にならないと思います。

私も日々研鑽です。

最後に、早野先生のご紹介してくださったお言葉です。「フェルミ加速器研究所初代所長のウィルソン。議会で、『この研究は国防に役にたつのか?』と問われた時の答え。『国防に役に立ちませんが、この国をまもるに値する国にします。』」。かっこいいですね! 振り返って、私の研究は「こんな成果を上げる国だから、守るに値すると思われるような研究」か?と問われると、ぐうの音も出ない感じです。はずかしい。
坂の上の雲」で、秋山兄弟は「国をまもった人々」ですが。。。。。「まもるに値する国にした人」それが友人の正岡子規だったのでしょう。



# 12398

「放射能と人体」を拝聴して

昨日、日本医学会・日本医師会合同フォーラム「放射能と人体」を受講しました。
http://jams.med.or.jp/forum/pdf_forum-poster_godo.pdf
http://jams.med.or.jp/forum/index.html

総合司会と序論を担当なさった、長崎大学名誉教授の長瀧重信先生のお話はとてもためになりました。また、福島県立医科大学副学長の山下俊一先生、財団法人放射線影響研究所理事長の大久保利晃先生をはじめ、多くの先生のお話を拝聴しました。

私なりに、まとめてみましたので書いてみます。

1.放射能の影響は3種類ある。(1)「急性」放射能を瞬時に大量に浴びてしまう事故現場のような状況での影響(2)「晩発」低レベルの放射能を長期にわたって浴び続けたときの影響(3)「遺伝」。いま社会問題となっているのは(2)である。

2.科学的には以下のことがわかっている。
(1)「急性」
・瞬時に10000ミリシーベルト以上の放射線を浴びると生命にかかわるような重大な影響がある。
(2)「晩発」
・年間100ミリシーベルトを越すと、被曝量と発がん率の間に線形の相関がある。つまり、年間100ミリシーベルトよりも大きな被曝量になって初めて、被曝量に比例して発がん率が増大するとうい関係がある。年間100ミリシーベルト以下では、被曝量に比例して発がん率が向上しているわけではない。これらは、主に、広島・長崎の原爆の影響の調査に基づく。

チェルノブイリの事故の後、周辺で小児の甲状腺への影響が見られた。これは、放射能に汚染されたミルクを日常的に摂取したことによる影響と考えられる。また甲状腺への影響であることから、放射性ヨウ素が原因であると考えられる。ただ、この地域はもともと甲状腺機能の異常が比較的多く診られた地域であることも考慮する必要がある。
チェルノブイリの事故の後、セシウムによる内部被曝と発がん率とに明確な相関はない。

・テチャ川流域では、年間250ミリシーベルト以上の放射線を浴びている住民の発がん率が増大している。
・インドのケララ地方では、一般住民が年間平均4ミリシーベルトの被曝を自然界から受けている。今のところ他の地域と比較しても発がん率の向上は見られない。
科学的にわかっているデータはおおよそこれなのです。私たちは、このデータからどう考えるか?が求められています。

3.主な考察事項(晩発を中心に)
・年間100ミリシーベルトを超すと明確に発がん率が向上しているので、年間100ミリシーベルトよりは低い被曝量であることが望ましいと科学的な立場からいうことができる。
・では、100ミリシーベルト以下では、どうして被曝量と発がん率の間に明確な相関がみられないのか、考えないといけない。発がん率が向上する原因は、なにも、放射線被曝だけではない。日常生活の中で、喫煙、過度の飲酒、野菜不足、運動不足、肥満、などなどの多くの発がん率向上の原因がある。これらの要因をすべて排除して、放射能によるリスクだけを抜き出して調査しようとしてもそれは不可能である。つまり、年間100ミリシーベルト以下の場合だと、喫煙、野菜不足、運動不足などと同程度の発がんリスクと考えていいということである。
※ちょっとこの部分を私なりに考えていましょう。たとえば、年間1ミリシーベルト被曝していて、かつ毎日タバコを2箱吸っている人がいました。そしてがんになりました。さて、がんの原因はどちらでしょうか?この問いに科学的に答えることはできないということです。この程度の被曝量だと、放射線の影響のみならず、その人の生活のコンテキストのほうが重要になってくるということです。

4.科学的な正しさと社会的な正しさ
これがとても大切なことなのですが、科学的な正しさと社会的な正しさは違うということです。年間100ミリシーベルトを超えると科学的に明らかに発がん率が向上する。しかし、それ以下だと、日常的な他の発がんの原因と混ざってしまい、発がんの原因がわからなくなってしまう。だからといって、放射線を浴び続けるのは、悪いことであることには違いないので、なるべく放射線を浴びないようにしましょう。これが、科学的な根拠に基づいた、社会的な正しさです。では、なるべく浴びないように。。。といわれても、目標があったほうが気を付けるようになります。こうして、なるべく浴びないというのがどの程度なのかというので決められたのは、年間1ミリシーベルトということです。つまり、年間1ミリシーベルトというのは社会的な正しさなのです。
※いってみれば、タバコはなるべくやめましょう。毎日30分の散歩をしましょう。そうしないと発がんリスクが上がります。というのと同じことです。
※たとえば、年間5ミリシーベルトを被曝していた。そしてがんになって死んでしまった。といった場合、科学的には被曝のためにがんになったとは言い難いです。しかし、被曝していることを知って本人が非常に精神的に苦痛を受けたり、社会的な活動ができなかったりすることは、社会的に正しいことでありません。このような場合は社会的な正しさに従って、救済すべきことなのかもしれません。

5.私の感想
とても勉強になりました。特に4番はたいへん重要と思いました。
変なたとえかもしれませんが、近代科学の父と言われるニュートンは、化学反応によって金ができると信じでおり、錬金術に夢中でした。もちろん、今では化学反応によって金ができることはないとわかっています。したがって、今から考えると、金の合成に関するニュートンの考えは間違っていたということになります。けれども、当時は誰もが金ができることを信じていたのかもしれません。錬金術の研究は社会的に正しい判断だったといえるのかもしれません。では、本当に錬金術の研究は必要なかったのか?そうではありません。錬金術の研究を進めることによって、また違った化学反応に関する事実がわかり、化学反応の研究が進み、今日の化学合成ができて、便利な化学物質、石油製品ができるようになったのです。このようにして科学は進んでいくのです。ここまで考えると、ニュートン錬金術は、社会的に正しい行為といえそうです。もちろん、この錬金術や化学反応の研究の過程で、研究者のみならず、一般市民が詐欺にあったり、けがをしたり、はたまた生命を落とすこともあったのかもしれません。このようにして人間の科学的な能力は向上していくのです。
もうちょっと身近な話ですと、秋ですからキノコの話をしましょう。毒キノコがなぜ毒キノコとわかるのか?それは、過去に犬や猫が食べて死んだからなのか、もしくは、人間が食べて死んだから、わかったことなのでしょう。毒であることがわかるのは、必ず何かの犠牲があるからです。私たちができることは、先人の経験を現在に活かしてよりより生活を送ることです。先人の経験から毒キノコとわかっているにもかかわらず食べて死んでしまう人がいます。しかし、キノコすべてが毒だと思い込んで食べないでいると、一生、マツタケやシメジのおいしさをわからずに死んでしまいます。怖がりすぎてもいけませんし、かといってリスクゼロのことばかりしていると、人生はつまらなくなり生きてる甲斐もなってしまうのです。

そんなことを思いながら、会場を後にしました。

このフォーラムの最後に、長瀧重信先生がおっしゃった言葉が印象的でした。
「みなさん、この会場からご自宅に帰られるまで、死ぬ確率はゼロですか? ゼロでなければ帰りませんか?」

ああ、そうだなあと思いました。


#12208

「Webという名の宇宙」 の中の生命体

最近、サイバー攻撃がまた新聞を賑やかにしています。サイバー攻撃の手段として多いのがコンピュータウイルスによる攻撃です。コンピュータウイルスは、他のプログラムに寄生して自分自身のコピーをつくり、多くの場合ユーザに不利益をもたらします。もちろん、コンピュータの内部のことであり、ネットワークや移動可能な媒体(USBメモリーなど)を通じで、他のプログラムに感染します。感染するのは、あくまで、プログラムやアプリケーション、システムであり、人間などの生物ではないことを明記しておきます。いってしまえば、あるプログラムAがあって、A自身が自分を「コピペ」して、どんどん増えていってしまうのです。Aがたとえばシステムの入力をしているとフリーズさせる機能があると、それだけで、ユーザに不利益をもたらしますよね。これが、コンピュータウイルスです。中には、寄生しているシステムから情報を抜き取って外部へガンガン発信するような超ワルもいます。

コンピュータウイルスを作ることは犯罪です。昔は、高度なプログラミング技術を持つ人を敬意をこめて「ハッカー」と呼んでいました。「ハッカー」の大部分は善人でしたが、中には道徳心のない人やいたずらしたい人がいて、その技能を使ってウイルスを作り、みんなをあたふたさせたのです。コンピュータネットワークがまだまだ盛んでなくて、「ハッカー」達の庭だったときにはよかったのですが、このようにワールドワイドになり、しかも、金融取引や機密文書までが飛び交うようになると、冗談では済まされなくなってしまったのです。ウイルスを作る人がしばしば「ハッカー」と言われていますが、これは残念なことで、ほんの一部のハッカーが「クラッカー(攻撃する人)」になるだけです。


さて、今日は、このウイルスについて考えてみたいと思います。上にも書いたように、コンピュータウイルスは、私たちの体に寄生するわけではありません。プログラム(アプリケーションやシステム)に寄生し増殖して、Webという宇宙の中を移動して、またほかのプログラムに寄生して増殖するのです。そしてプログラムを壊したり誤作動させたりして、プログラムを使っている人を困らせるのです。


では、私たちの体に寄生する風邪ウイルスはどうでしょうか?ここからは、コンピュータの世界(サイバー)ではなく、私たちのこのリアルな世界のウイルスについて考えてみます。風邪ウイルスは私たちの体に寄生して、我々の社会や地球や宇宙を移動しては、他の人、また他の生物に寄生して増殖するのです。これが風邪ウイルスですが、このウイルスと、コンピュータの中のウイルスは、振る舞いがそっくりなので、やはりウイルスと呼ばれるようになったのです。


さらに、リアルな世界では、ウイルスのような生命と物質との中間のような存在から、DNAをもつ菌が生まれ、菌が単細胞生物やアメーバ―になり、やがて動物や植物ができ、人間まで進化してきました。これは、DNAという生物のプログラムをどんどん進化させてきたことによるものです。その際に重要なことは、突然変異や交配です。
同じことがコンピュータウイルスでも起こらないでしょうか?コンピュータウイルスのプログラムが、突然変異を起こしたり、ウイルスのプログラム同士が交配して、どんどん進化する。そして、Webというネットワークの中に高度な知的生命体になる。しかし、彼らは、あくまでWebというサイバー空間の中の住人であり、決して人間の住むリアルな宇宙には出てこられない。彼らは、自分のプログラムを書いた人間を創造主「神」と呼ぶ。もしかすると、ネットワークの中に存在するアバターにあったら、天孫降臨なんでいうのかもしれません。

最後に、メタなことを考えましょう。このコンピュータウイルスが高度に進化してできた知的生命体が、実は、「我々人間」に相当している、としたら。私たちのリアルな宇宙のその「外」に何か「神」という存在がいて、DNAというメディアの上に生命の情報をプログラムして、そのプログラムが進化したのが我々人間という存在である。我々人間は、この宇宙の外には出られず、外にいる我々の創造主を「神」とよぶ。なんともさびしく物悲しいでしょう?秋にはぴったりではありませんか?

ちなみに最新の物理理論である超弦理論では、この宇宙は10次元であり、我々の日常はそのうちの4次元の空間に閉じ込められているそうです。残りの6次元は、我々の日常生活という宇宙から見ると「外」になるのでしょうかね。

コンピュータという人間に肉薄する知的な存在ができて、人間は、コンピュータと自分を比較することにより、知性とは何かを、より深く考えられるようになりました。Webができて、コンピュータネットワークができることにより、人間は自分の社会のネットワーク(ソーシャルネットワーク)をより深く理解できるようになりました。

コンピュータが動き始めたとき、フォン・ノイマンは、「これでこの世に2番目に頭のいいやつができた」といったそうですが、コンピュータが1台増える毎に自分の知性のランキングが1つ落ちるなんて。。。またまたさびしく物悲しい話です。

秋ですねえ〜。