問題解決先進国の日本は問題解決立国となろう。

近代日本にとって、第3の敗戦といわれる今回の複合災害。被害の甚大さ、そして、その影響範囲の広さを認識するにあたり、どうしても心理的に受け入れがたいものがあります。自分たちは、こんな地獄絵を見るためにがんばってきたわけではないはずなのです。しかし、一方で快適さを求めるあまりに暴走していた面は否定することはできません。この激しいジレンマの中に、今、私たちはいるのではないでしょうか?

この複合災害が起こったとき、即に「未曾有」という言葉が使われました。これは正しい使い方だと思います。地震だけをとっても大災害です。それに津波が加わりました。地震津波はセットで語られることも多いですが、地震が起こったから必ず津波で大被害になるとは限らず(阪神淡路大震災)、チリ沖地震のように、津波が日本を襲ったからといって、日本の近くで地震が起こっているとも限らないのです。つまり、こういうことを考えても、貞観地震以来、1000年ぶりの大地震ということになります。さらに、運の悪いことに、そこには、1000年前と違って、原子力発電所があった。そして、日本の、さらに世界の経済がもっとよければ、また今の状況は違っていたかもしれません。世界を見渡しても、経済状態が非常によい国というのは、本当に少ないですね。こんな日本でも、むしろ、経済状態は、良い方なのでは?と思ってしまいます。要は、日本はいま、世界中がこれから経験するあらゆる問題を全部抱えて苦しんでいる状況なのでしょう。これでもそれなりに社会が安定して存在していることは、日本人の道徳観が優れているからといえるでしょう。日本は、問題山積先進国であり、これからは問題解決先進国となるでしょう。しかし、これは、常に先進国が抱えてきた課題です。つまり、先進国こそが世界でやはり一番先進的な課題を抱え込むという単なる宿命と理解することもできます。いままでは、その役割をイギリスやフランス、ドイツ、そしてアメリカが背負ってきただけです。そして日本の番が来ただけなのでしょう。ちょっと皮肉な言い方に聞こえるかもしれませんが、これで日本は本当の意味で先進国になったのです。

いままで日本は先進国であったにもかかわらず、それらの問題から目を背けていたのではないでしょうか?私もそういう問題を後回しにして、簡単な問題ばかり解いてきた気がします。成果主義の時代でしたから、容易に成果が出る問題を多く解いたほうがよかったのです。しかし、それで本当に良いのでしょうか?

日本は、私も含めて、「見える化」しないと理解できない国民性を持っているのかもしれません。「黒船」をみて自分の危機を感じ、東京の焼け野原を目にしただけでは気がつかず、「広島、長崎」の悲劇を見なければ敗戦に気づかなかったのです。そして、今、この複合災害の地獄絵を見て、日本は危機に気づいているのでしょうか?

さて、見える化と申しましたが、そういう悲劇のビジュアルな見える化の次には、復興のための目標設定のための数値化という見える化も重要な課題になってきます。黒船のあとには、国力は「兵力、軍隊の規模」という尺度ではかり、日本はがんばりました。約40年後、日清日露で勝ちました。しかし、その尺度も役に立たなくなり、太平洋戦争で負けます。そのときに、国力は「経済力、お金の量」と気づいたのです。その後約40年日本は、バブル経済になり、世界に、日本はNo1と宣言したのです。そして、その尺度がいま、役に立たなくなっているのではないでしょうか?

問題解決には、問題の深刻さを明らかにする、ビジュアルな見える化。そして、その問題を解決し脱却するための目標を設定できる、数値的な見える化。その両方が必要でしょう。

では次にどういう尺度が重要なのか?ひとつは「エネルギー」もうひとつは「情報量」でしょう。エネルギーをどれだけの量ハンドリングできるか?情報をどれだけの量ハンドリングできるか?それが国力の尺度になるのではないでしょうか?
ここで、重要なのは、「質」という概念です。エネルギーがいくらたくさんあっても、「エントロピー」が高ければ、エネルギーの質が悪く、何にもなりません。情報も同じです。「エントロピー」が高ければ、質が悪く意味がありません。

エントロピーはちょっと理解が難しい概念ではあります。エネルギーのほうでは計算方法が決まっています。また、Syntax情報では、シャノンの理論のようにエントロピーを計算することができます。しかし、Semantic情報のエントロピーはどのように計算すればよいのか?まだ私にはわかりません。そして、より生活に重要なのは、Semantic情報だと思います。

ちょっと考えると、以前の尺度である、軍隊にも経済にも、単に「量」だけではなく、「エントロピー」のような「質」の尺度が必要だったのかもしれませんね。